更新日:2026年05月29日 18:54
ライフ

『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第六章・第一話 堅山賢一編】「働いて働いて働く」/鳥トマト

 出版社・有幻社のライツ事業部で、アニメプロデューサーとして働く堅山賢一。漫画編集者・若林信二の担当コミック『私の理解あるカレ君』を担当しているが、上司の不手際により計画は暗礁に乗り上げ、激務に晒されている。家では妻から家庭優先を強いられ板挟みに…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第六章(堅山賢一編)・第一話「働いて働いて働く」

「賢一くん、もう行くの?」  妻の優が起きてきて玄関から出ていこうとする僕を呼び止める。今日は八時半から海外の出資元の会社とテレカンだ。その前に資料も整理しておきたい。何より、家だと子供が起きてくると会議が中断されてしまう。 「最近パパいないねって、昨日健吾がしょんぼりしてたよ」  閉まっていくドアの向こうから優の声が聞こえる。昨晩も別に子供はしょんぼりしているようには見えなかったが。しょんぼりしてるのは妻じゃないのか。  通勤バスの中でスマホが震えて目が覚める。意識を失っていた。画面を見ると編集部の若林からのどうでもいいメール。ため息をつきながら会社の前にバスが着いていることに気がついて慌てて降りる。最近あまり寝る時間がなく、常時、頭痛がする。  海外取引先とのテレカンの後は全体会議。部長が代わってから、新部長がメンバーの顔を覚えるため、という理由で部会は全員リモート禁止になっている。 「それでは恒例の契約書チェックからお願いします」  部内共通のスプレッドシートを眺めると、期日までに契約が締結できていない、僕が担当している契約書が煌々と黄色に光っている。 「堅山の担当作品、相変わらず大量だねぇ」  新部長がおどけて言うと、会議室は水を打ったように沈黙した。会議が始まる前までのざわめきが噓みたいだ。ここで口を挟むと自分に仕事が回される可能性があると思って、全員黙っているのだ。 「誰か堅山と一緒に業務片付けてくれる人はいないの?」  業務のことを何も理解していない新部長が無邪気な発言をする。全ての案件にサブ担当で入っている山野がうつむいている。自分では役に立たないと言われたも同然だからだ。 「大丈夫です。なんとかします」  僕が定型句を言うと、議題は次の話に進んでいき、どのメンバーも一言も発さないまま、ただ安堵したような小さな息だけが方々から漏れてくるのが聞こえた。誰も生活を脅かしてまで仕事を増やしたくない。当然だ。  むしろなぜ僕は率先して異常な業務量を引き受けているんだろう。  部署に戻ると派遣スタッフが「同じ方から何回も堅山さんに電話きてましたよ」と言って僕を呼び止める。電話番号を見てゾッとする。『わたカレ』のアニメ監督からだ。 「いい加減にしてくださいよ!」  アニメ監督に叫ばれる。 「放送が地上波か、ネットフリックスオンリーかっていうのは致命的に視聴者の認知が違うんですよ! 話が違うじゃないですか」  監督からの怒りの電話に淡々と謝る。今の僕は全自動謝罪マシンだ。そうでも思わないとやってられない。  電話を切ってメールを見ると法務部から大量のチェック済み契約書が返ってきていた。元部長の猿渡が法務の指示を無視して無理やり削除していた文言が全て復活している。ため息をつき、一通り目を通し、疑問点があったので法務部に電話をする。 「なんとか今日中にもう一回レビューしてもらうことはできませんかね?」 「すみません、私、時短勤務で十七時には帰ってしまうので明日お戻ししますね」  なぜそんなに堂々と時短勤務であることを僕に宣言するのだ。  朝ごはんを食べていなかったので空腹著しく、社食に行くことにした。元部長の猿渡が廊下で喋っているのが聞こえる。誰かと電話しているようだ。 「あぁ、すみません。あの契約書ね、もう後任の竪山しかわかんないんですよ。申し訳ないですねぇ。私異動しちゃって。はい。いやぁ堅山は頭固いですからね。ごめんなさい時間かかっちゃって。あはは」  僕は別のルートから社食に行くことにした。不快極まりない。僕が頭固いのではなく、お前が仕事を未完の状態で大量に放棄して異動になってしまったのが全ての要因だろ! 「ここいいですか?」  社食で山菜そばを吸い込んでいるとラーメンのお盆を持った山野が話しかけてきた。 「いいけど、もうすぐ食べ終わるよ」  以前まで山野とは毎日昼食を食べていたが、あまりにも不規則に会議が入るので僕は昼食をちゃんと食べられない日が増えていた。 「堅山さん最近痩せました? ちゃんと寝てます?」  山野が小さな口にラーメンを持っていきながら心配そうに眉をひそめる。痩せたかどうかわからない。そもそも体重をここ一年くらい量っていない。 「何か私にできる仕事あったら振ってください。まだ全然、ポンコツだけど……」  入社一年目の山野にそこまでの仕事を振ることはできない。だが、あの会議の後だとそう言ってくれるだけでありがたかった。 「そういえばお子さんは元気ですか?」  化粧の濃いギャルみたいな山野の口から「お子さん」というワードが出てきて僕は変な気分になった。違和感がすごい。 「最近はもう家のことは妻に任せっぱなしだよ。怒られてばっかりです」  山野が変なこと聞いてすみませんとばかりに困った眉になった。 「山野は最近どうなの?」  一応聞いておこう。困りごとを聞いたところで最近の自分がもう指導社員としての役割を果たせるかどうかは自信がないが。 「最近、体力つけようと思って、ラクーアのスポーツクラブ契約したんですよ。併設の温泉も遅くまで入れるし気持ちいいですよ」  山野はニコニコしていた。よかった。相変わらず若くて元気だ。気がつくと山野はもう半分くらいラーメンを食べ終わっていた。食べるのが速い。 「堅山先輩もたまにはラクーアとか行ったらいいんじゃないですか? あそこ夜泊まりながら仕事してるお兄さんいっぱいいますよ」  僕は苦笑いを浮かべ、食べ終わった食器を持って先に立ち上がる。僕には家庭を維持するというミッションがある。そんな逃げは許されない。  午後、契約書を再確認して法務部に戻す。戻した瞬間に別の契約書が添付されたメールが返ってくる。受信フォルダに大量のメールが溜まっている。メールだけじゃない。スラックにも、LINEにも、全てのデバイスに返信しなくてはいけないタスクが積み上がっている。音響会社からの収録リスケの依頼。チェック用の完パケ動画データ。真中先生からの質問LINE。委員会メールは全メンバー宛てに送られたものだから九割は全く読まなくてもいいような内容だが、残り一割の中に自分に関わりのある重大な仕事が紛れているので全て開封して一度は読まなくてはならない。「問題ありません」「そちらの件、一度著者に確認をとりたく、一旦お待ちいただけますでしょうか」「恐れ入りますがご提示の経済条件でライセンス許諾をすることはできかねます。ご再考いただけないでしょうか?」「ご進行ください」……メールを開ける。読む。爆弾のような文章が入っていないか目を凝らして確認。次のメール。大丈夫ならまた次のメール。さながら僕のメールフォルダ確認はマインスイーパーのようだ。  一時間メール対応をしていると動悸がしてきた。頭も痛い。マウスを握る指が小刻みに震えている。でもやるしかない。僕以外に僕宛てのメールを開けてくれる人は誰もいない。  メールを確認して、アニメ制作会社と打ち合わせと会食をして、会社に戻り、今月一回もしていなかった月末の経費申請をしてからタクシーで家に帰り着いたのは深夜二時だった。  鍵を開けて家に入ろうとする。ドアを引くと、ガッという音がしてドアが途中で止まった。壊れたのかと思ったがすぐに状況を理解した。内側からチェーンをかけられているのだ。家に入ったら、眠っている妻に頭を下げて、「ごめんね」と言わなくてはならない。  僕は舌打ちをしてインターホンを押そうと思い、指が止まった。え、なぜ? なぜ僕は謝らないといけないんだろう。なぜ僕はこんなことをしてるんだ? なぜ僕は僕を大事にしてくれない女とその子供のために自分の人生を全部犠牲にしないといけないんだ? 急に全てが馬鹿馬鹿しくなった。  昼の山野との会話を思い出す。朝まで開いてる温泉施設とかで寝ればいいんじゃないですか? そうすれば奥さんと顔を合わさなくて済みますよ。 まだおじさんじゃない 堅山賢一…39歳。妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化担当
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

若林信二…39歳。バツイチ。出版社・有幻社の青年漫画誌の編集部で働く漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

山野美羽…28歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。前職で上司と不倫して退職したという噂がある
山野美羽

山野美羽

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
SPA!編集部が「人生後半を賢く楽しく生きる」をテーマに厳選した記事をメルマガ会員限定で毎週金曜日にメールでお届けします。仕事・お金・性・人間関係…人生を豊かにする秘訣が見つかります。無料・10秒で完了です。
無料でメルマガ登録する⇒⇒
※登録後、メール認証が必要です。受信した認証メールをクリックして、登録を完了させてください。
※認証メールが届かない場合、迷惑メールに入っているか、メールアドレスが間違っている可能性があります。再度ご登録ください。
【関連キーワードから記事を探す】