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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第六章・第四話 堅山賢一編】「仕事できる男」/鳥トマト

出版社・有幻社のライツ事業部でアニメプロデューサーとして働く堅山賢一。編集者・若林信二の担当作『私の理解あるカレ君』のアニメ化を担当している。元部長が異動したため激務を強いられ、妊娠中の妻からの圧も増して板挟みに。そんな中、部下の山野と寝てしまい…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第六章(堅山賢一編)・第四話「仕事できる男」

 三時に寝たのにもう、目が覚めた。最近どんなに遅く寝ても、太陽が昇るちょっと前に勝手に目が覚めるのだ。スマホを見ると朝六時二十分。 「堅山さん~先日は楽しかったですね! またよろしくお願いします」  山野からのLINEの通知が来ている。「先日」というのは先週飲みに行って山野の家に泊まったときのことだろう。元気いっぱいのうさぎのスタンプを見て体を起こす。子供と妻がまだ寝ている寝室を出て、トイレに行き、服を着替える。朝食は摂らない。玄関には、山野の真似をしてアマゾンで大量に購入したラベルレスの五百ミリ緑茶ペットボトルがある。それを掴んで静かに家を出る。  今日も頭が痛い。でも、頭って実は常時痛いものなのだ、と思い込んでしまえばただそれだけのことだった。会社に向かう足取りは軽い。歩きながらカレンダーで一日の予定を確認する。今日もやることは山ほどある。ただ……まぁ、全部俺がやれば回るだろう。  フロアにはまだ誰もいない。パソコンを立ち上げるとメールが三十二件も来ていた。メールを開けても心拍数はもう上がらない。これはただのマインスイーパーだ。著者や監督が怒っていたり、編集部からクレームが来ていたり、委員会が紛糾していたりしても、全てはただのゲーム。俺は仮想現実の中にいるような気分でサクサクとメールを開けていく。  このメール一件一件の先に人間がいる、と思うから苦しかったのだ。このメールは全部バーチャル。爆発したって、なんの痛みもない。文字列の先には誰もいない。虚無があるだけ。このマインスイーパーの中の爆弾を爆破させるもさせないも俺次第なんだ。  契約書の返し方もわかってきた。新しい法務担当者とやりとりしているうちに、この人の癖がわかってきた。要するにこの担当者はリスクを指摘するだけして、自分が責任を負うのが嫌だから回りくどい言い方をしているだけなのだ。それに気づいてしまってからは簡単だった。全部「弊部の責任で進行します」の一文をつけて先に上長に根回ししておけば捺印される。実際に誰が責任を負うかなんてわかるもんか。誰がどのタイミングでどのポジションにいるかなんて運なのだ。そんな未来のロシアンルーレットのことまで考えている余裕はもうない。今がなんとかなればいいのだ。  制作会社からも広告代理店からもレコード会社からも次々電話がかかってくる。すべての電話を五分以内で捌く。人間として一人一人の気を悪くしないようにしゃべろう、などと考えていたから時間を取られていたのだ。全ての人間は仕事というボールを右から左に流していくだけのベルトコンベアーの部品であって、人格なんかない。そう思うと電話もメールも爆速で片付けられる。  取引先が電話口で「堅山さんじゃなかったらこんな条件のみませんよ」と言っている。  その瞬間、胸の奥で何かがじわっと膨らんだ。俺じゃなかったら。俺だから。俺はここでは必要とされている。部品として役に立っている。壊れかけていても、捨てられてない。  夕方、コンビニにコーヒーを買いに出かけたついでに外から会社を眺めた。自分がいるフロアも、その下のフロアも、連結している隣のビルの編集部が入っているフロアも煌々と明かりがついている。あの明かり一つ一つの下に人間がいて、全員もれなく壊れかけながら複雑に噛み合って懸命に会社を動かしている。俺もその一員としてこの会社を回している。歩いて会社に入り、社員証をタッチしてエレベーターに乗り、自分の席に座る。オフィスは暖房が効いて暖かい。深夜でも穏やかに座れて、仕事に集中できる座り心地のいい椅子がある。ありがたい。  深夜のオフィスでメールを打っていた。メールなんか家でもできると妻は言う。それはそう。物理的にはどこでも打てる。でも仕事には集中したいじゃないか。 「先輩、何食べてるんですか?」  山野が体を近づけて聞いてくる。 「食べる?」  俺はさっき買ったグミを山野に一口あげた。 「フーン」  おいしいんだかおいしくないんだかわからない反応だ。 「先輩、最近本当にすごい働いてますよね。体だけは壊さないでくださいね」  唐突に褒められて変な笑いが出る。 「ねぇ先輩、今日仕事どのくらいで終わりますか? 私お腹すいたんですけど」  山野が二の腕を指でツンツンしてくる。「お腹がすいた」んだ。わかったよ。俺はニヤッとしてメールを打つスピードを上げる。  俺のつらさを理解してくれる後輩がいて、よかった。以前の俺なら後輩との距離なんかをいちいち考えて気に病んでいただろうが、もうそんなことはしない。そんなことをしていたのは、暇だったからだともうわかっている。 「なんか蛍光灯チカチカしてません?」  山野に言われてみれば、さっきから視界が明るくなったり暗くなったりする。自分の目が疲れておかしくなったのかと思ったが、どうも部長席の上の蛍光灯が切れかけているようだ。もう二十一時を過ぎているから、設備管理室に電話しても誰も来てくれないだろう。 「とりあえず、切れかけてる蛍光灯、取ろっか」  俺は蛍光灯を取り外すべく席から立ち上がった。天井は高く、椅子に乗っても蛍光灯に手は届かなさそう。部長の机の上に立って取り外すしかなさそうだ。  部長の机を見る。漫画の編集部から落下傘のようにやってきた、アニメビジネスのことを何もわかっていない新部長。実質、ほとんど俺が部長みたいな仕事をしているから、やることがなくて誰よりも早く帰ってしまう。周りを見渡すと、俺と山野以外、もう部署には誰もいなかった。  俺は革靴を脱いで、新部長の綺麗すぎる机の上に立ち上がった。ここなら蛍光灯にも手が届きそうだ。 「なんか先輩、頭がチカチカ光ってお立ち台みたいになってますよ」  山野がケラケラ笑いながら、なぜか俺の革靴を持っている。確かに、新部長の机の上はスッキリしすぎて、ステージみたいに見えなくもない。自分の席を見やると、契約書や設定画、監修用に届いたHDDで山ができている。なんでこんなにこの机には物がないんだ。仕事をしてない証拠だろ。こんな現場業務のことをわかってない人間よりも絶対に俺の方が部長にふさわしいぞ。  山野しか見てないのをいいことに、俺は机の上でターンしてポーズを決める。山野がケラケラ笑っている。もうめちゃくちゃだ。  自分がもう、おかしくなってしまったのはわかっている。自分の人生に一貫性を持たせようなんて考えたから、俺は会社と家庭に引きちぎられて、壊れてしまったのだ。会社は会社の、家庭は家庭の、俺が関わる人間全員、俺を限界まで使い潰し、自分の都合を叶えることしか考えていなかった。いくらでも踊ってやるよ。お前らが望むなら。俺からの願いはもう一つだけ。みんなの願いに応えて踊るだけの男の肉になった俺に、倫理観なんか求めないでほしい。それだけ。  部長の机の上で踊るのは気持ちよかった。こんな机、全部、踏みにじってやる。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 堅山賢一…39歳。妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化担当
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

山野美羽…28歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。直属の上司である堅山を慕っている
山野美羽

山野美羽

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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