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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第六章・第二話 堅山賢一編】「働きたいマン」/鳥トマト

 出版社・有幻社のライツ事業部で、アニメプロデューサーとして働く堅山賢一。漫画編集者・若林信二の担当コミック『私の理解あるカレ君』を担当している。元部長が仕事を放り投げて異動したため激務を強いられ、2人目を妊娠した妻からは早く帰るように言われて板挟みに。 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第六章(堅山賢一編)・第二話「働きたいマン」

 金曜日の朝八時に、家に帰ってシャワーを浴びていると、妻の優が神妙な顔で浴室の前に立っていた。 「なんで昨日遅かったの?」  僕は体を拭きながら、できるだけなんでもないように「チェーンがかかってたから、起こすのも悪いと思って、スーパー銭湯で仮眠とってから帰ってきたんだよ」と言った。僕に頭を下げながらインターホンを押してほしかった妻としては、目論見が外れて腹立たしいのだろう。腕を組んで、指が貧乏ゆすりみたいに上下に動いている。 「あのさぁ、帰りが遅くなるときは連絡してほしいんだよね。これから二人目を産むって言ってるのに、そんなんで子育てできるの? なんで私に相談しないの?」  服を着替える僕の後ろから一方的に優が話しかけ続ける。妻の相談は相談ではない。彼女の望んだ結論を、僕が敗北して口にするまで、妻の思う正しい理論を聞かされ続ける拷問の時間なのだ。僕の意見が聞き入れられることはない。 「悪かったよ。ちょっと最近、本当に忙しいんだ。あと半年くらいでこの忙しさはなんとかなるはずだから、それまではしばらく夕食はいらないよ」 「は? 半年?」  僕が主に伝えたかった部分は「夕食はいらない」の部分だったのだが、聞き取ってもらえなかったようだ。 「こんなこと言いたくないんだけど、賢一君の仕事量って上司とかに相談して減らしてもらえないの? 私は復職するときに、自分から上司に仕事量の相談して減らしてもらってるんだけど?」  僕が黙っているのをいいことに、優は容赦なく日頃の不満をぶつけてくる。 「私の経理の仕事とかと違ってさぁ、あなたのその、プロデューサーの仕事? が華やかで面白いから、働くの楽しいっていう気持ちはわかるんだけど、あなたのために私が家のこと全部してることに対して何か感想はないわけ?」  プロデューサー業務内容への理解がまず大きく間違っている。実際は地味でつまらない仕事がほとんどだ。僕の他に誰も契約書業務やアニメ会社との折衝を引き受けてくれる人がいないから仕方がなくやっているだけなのに。でも、こんなふうにギアの入ってしまった優にそのことを伝えるのはもう不可能だ。 「ねぇ、どこ見てんの? もう週末、私、健吾と実家帰るから。お姉ちゃんも来るらしいし」  お姉ちゃん。妻にとって母親や姉はいつまでたっても甘えられる対象らしい。僕は社会人になってから自分の両親や弟に頼ろうと思ったことはない。どちらかといえば僕はいつも弟に頼られる側だった。僕があまり二人目の子供が欲しいと思わないのも、そういうところに原因があるのかもしれない。 「ねぇ聞いてるの?」  聞いてる。でも何を返事しても罵倒されるのだから言葉を発したくない。 「あなたのこと嫌いになっちゃいそうだから、そういう態度やめて?」  妻の声が背中からグサグサと突き刺してくるのを無視して僕は会社に向かう。  会社で仕事をしていると、気がついたらまた周りが暗くなっていた。全然仕事が片付いていないのに、一日が終わってため息が出る。僕が今やっている仕事の成果が出るのって、いつ頃だろうなぁ、とぼんやりと思う。アニメは企画が成立してから実際に放送されるまで四、五年かかる。担当代えも頻繁に起きる。僕が今、一生懸命回しているアニメのうち、放映後の打ち上げまで担当できる作品が一体、何作品あるだろう。僕がいなくなればいなくなったで、誰かが僕の代わりをするに違いない。そう思うと、丁寧に仕事をするのがバカバカしくなってくる。仕事を全て放り出したらどうなるだろう、というアイデアが頭をよぎる。そんなことをすれば原作者、監督、出資者、スポンサー、全ての関係者に今、この瞬間から迷惑が及び、電話口で怒鳴られ……結局その尻拭いをする人が今自分しかいないからこうなっているのだ。そもそも仕事を放り出して家に帰ったところで、恐ろしい怒った妻が待ち構えている。本当に憂鬱だ。仕事でも追い詰められ、家でも追い詰められ、僕は一体どこに行けばいいというのか。 「堅山さん、最近遅いですね。二十一時過ぎたらバスないんじゃなかったですっけ? 帰んないでお子さんとか、大丈夫ですか?」  山野がコンビニからお菓子を買って帰ってきた。業務の一部を引き渡した結果、彼女も最近は帰るのが遅くなっている。 「いやまあ、大丈夫ではないね」  僕が返事をした瞬間、山野はお腹のグゥという音を部署に鳴り響かせ、しまった、という顔になる。 「すみません、お腹すいちゃって」  久しぶりに面白いものを見た気がして僕は笑ってしまった。山野は、仕事はできるギャル風なのに、ときどき猿みたいなことをする。 「笑わないでくださいよ! 私、今日昼ごはん食べてないんですよ」  必死の言い訳をする山野を見ながら僕も食べてないな、と思い出す。朝食もなかったから、今日一日、よく考えたら何も口にしていない。  二十一時になっても次々と新しいメールが来続けていた。このゲームは永遠に終わらないんだな、と思う。どこかで休息しないと、目も霞んできた。 「なんかキリがいいところまで終わったら食べに行こうか。お腹すいたよね」  僕が提案すると、山野が待ってましたとばかりに目を輝かせる。単純な人間だ。可愛い。 「私、もう一生、結婚なんてできなくっていいんです! 死ぬほど仕事がしたいんですよ!」  すごい勢いで濃いめのハイボールを流し込む山野を、僕は呆気に取られて見ていた。中年ばかりの江戸川橋の飲み屋のカウンターで、令和の若者もこんなに酒を飲むんだなあ、ともはや感心していた。 「私、前の会社でも超働きたくて、一番仕事できる部長にいろいろ直接教えてもらってたんですよ。そうしたらその人がハラスメントで人事部に更迭されて。私はその人と寝てるって同僚に噂流されて会社にいられなくなっちゃったんですよ。本当に陰湿ですよ、あの会社。もう最寄駅の神保町にすら降りたくないですよ私」  山野が顔を真っ赤にして捲し立てる。若いのに大変だったんだな、と僕も回らない頭で思った。 「べっぴんさんだから羨ましがられたんでしょう」  僕は何も考えずに口にした後に、しまった、と思ったが、山野はそれを聞いて爆笑するだけだった。 「『べっぴんさん』だって! 何その言い方! 昭和のおじさん?」  そうだよ。僕は昭和生まれのおじさんですよ、と言いながら僕も酒を飲む。楽しい。 「タクシーってそのうち自動運転になるらしいですよ? 知ってましたか?」  ベロベロの山野を一人で帰すわけにもいかず二人でタクシーに乗り込む。山野は酔うと話題があっちに行ったりこっちに行ったり、飛び飛びになる。 「私、前の会社で結局プロデューサーらしいことは何もやれずじまいだったんです。だから今、堅山さんと一緒にやりたい仕事いっぱいやらせてもらえてて超嬉しい!」  仕事いっぱいやらせてもらえて超嬉しい。そんな発言、久しぶりに聞いたよ、と言うと山野はニッコリして僕の片手を両手で摑み、「自信持ってください!」と叫び始めた。 「先輩の奥さん、マジでもったいないですよ。働くな働くなって、そんなに旦那の自尊心を削ってマジで何がしたいんですか? そんなのよくない! めっ! です」  よくないのは既婚者の手をそんなふうに鷲摑みにしたり叩いたりするお前だろ、と思ったが言わなかった。僕の代わりに山野が妻をディスってくれて快感すらあった。  なんで僕は好きでもない家族のために摩耗しているんだ? たまにはご褒美があってもいいじゃないか。  酔って頭がよく回ってない。開いたタクシーのドアから山野が繫いだままの手を引っ張って、なぜか自分の家まで連れていこうとする。こんなこと昔はよくあったよな、とうっすら結婚する前の記憶が蘇ってきた。手まで握れれば、セックスまでいける。これはもう自動運転なのだ。 鳥トマト 堅山賢一…39歳。妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化担当
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

山野美羽…28歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。前職で上司と不倫して退職したという噂がある
山野美羽

山野美羽

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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