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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第七章・第一話 若林信二編】「サブカルうつ」/鳥トマト

出版社で漫画編集者として働く若林信二。担当作のアニメ化が決まり、ライツ事業部の堅山賢一とやりとりを重ねるうちに、自らが人生の“周回遅れ”であると気づく。婚活はうまくいかず、編集部には怪文書が届き続け、担当作家の真中が漫画を描けなくなるなど不運が続く…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第七章(若林信二編)・第一話「サブカルうつ」

「最近の若林さんは、丸くなりましたね。言葉は前より穏やかになったし、配信の空気も壊さなくなった。大人として正しい振る舞いをしているのだと思います。ただ、文化を愛していたあなたのことを、忘れられない人間がいるということだけは、頭の片隅に置いておいてほしいです。言葉や表現を、効率や正解とは別の場所で信じていた頃のあなたは輝いていました。『俺はビクトリアム編集部そのものだ』とか、最近は、そういう傲慢な言葉をあまり言わなくなりましたね。間違えないように、誰も傷つけないように、年相応にちゃんとした位置に収まろうとしているように見えます。それは賢い選択だと思います。でも、あなたは最初から、そういう人ではなかったはずです。文化を守るために丸くなる人ではなく、文化のために星になることを選んでいた人だった。昔のあなたが、本当に好きでした。年相応という言葉で言い訳をする前に、もう一度、あの情熱を取り戻してもらえませんか? そうでないなら漫画編集者なんか辞めてもらえませんか?」  編集部のYouTube動画が配信された翌週に、また差出人不明の怪文書が届き、俺は発狂しそうだった。お前に俺の何がわかる? というか、そもそもお前は誰?  編集部の机で時計を見ると十五時になろうとしていた。十六時から真中のカウンセリングだ。一回家に帰らないといけない。  俺の家にここ三週間泊まっている真中は、明らかに普通の状態ではなかった。髪はボサボサになり、ひげも伸びて、声をかけなければ食事も摂らず、風呂にも入らず、文字通り、人のベッドルームで一日中寝ていた。このままではまずいと思い、声をかける。 「あの真中さん? 大丈夫ですか?」 「大丈夫よ」  地底から這い出してきた人のような声がする。大丈夫ではない。 「あの、病院とか一緒に行きましょうか」 「何の病院? アタシ元気よ」  下を見ると、さりげなく枕元に置いておいた吉田豪の『サブカル・スーパースター鬱伝』と田中圭一の『うつヌケ』が二冊とも床に転がっている。 「アタシ、鬱なんかじゃないわよ」  いや、鬱だろ、どう見ても。元気なら漫画を描いてくれよ、という言葉を呑み込む。真中が休載を宣言してはや一か月、このままだと紙媒体には他に新しい連載が決まって、真中の連載はWebに移行してしまう。連載枠は奪い合いなのだ。 「何がそんなに嫌なんですか」  俺はベッドに腰掛けて、寝そべり枕に顔を埋(うず)めたままの真中に話しかける。真中はしばらくうめいたあと小声で、 「お薬なんか飲んだら、前みたいに想像力が働かなくなって漫画描けなくなっちゃうんじゃないかっていうのが怖いのよ……」  と言った。泣いているようだった。なるほど。 「じゃあ、まずは、絶対薬が処方されない、話だけ聞いてくれる心理カウンセラーのところに行くっていうのはどうですか? 俺も一緒に行くんで」  真中はしばらくダンマリを決め込んだあと、枕に顔をより深く埋めて頷いた。そういうわけで俺は真中をカウンセリングに連れていくことになったのだ。  俺が探してきた、すぐ予約の取れるカウンセラーは、カウンセリング室を構えておらず、近場のコワーキングスペースまで出向いてくれるという。歩きたがらない真中を電車に乗せたり、長距離歩かせたりするのは難しいだろうと思い、家から近い建物まで来てくれるカウンセラーをインターネットで探した結果、「ゆいか」という女性カウンセラーが見つかった。顔写真を見ると、黒い髪が肩まである女性で、良くも悪くも、AIで作ったかのように淡泊で無個性な顔だった。この人ならとりあえず、静かに人の話を聞くくらいのことはできるだろう。それにしても、この仕事でこの女性はどうやって生計を立てているんだろう。  待ち合わせ場所として指定された雑居ビルの廊下は、床が灰色で、壁が白い、小綺麗で同じサイズの会議室が「コワーキングスペース①」「コワーキングスペース②」というドアプレートをつけられて並んでいた。 「じゃあ付き添いの方はこちらで……」  カウンセラーはそう言って真中と会議室に入っていった。  廊下には、病院の待合室みたいな破れた革の長椅子が一脚だけ置いてあった。座ると脚が少しだけ軋(きし)んだ。寒いので、コートを脱がずに座る。壁に貼られた注意書きには、「次の利用者のために、終了後は換気をお願いします」と書かれている。ここは誰の場所でもないのだ。一番大事にされるべきはこの「場所」であって、「今の利用者」ではないというメッセージを感じる。  会議室の中から、低い声が聞こえた。言葉の内容はわからない。ただ、抑えた調子で話しているのがわかる。廊下にいる俺には、その声が、相談なのか、説明なのか、区別できなかった。ときどきパイプ椅子を引きずるギッという音がして、真中が姿勢を変えたのだと想像した。  スマホで時計を見る。まだ五分も経っていなかった。何もしないのも退屈なので、真中の漫画『私の理解あるカレ君』を一話から読み直す。相変わらず驚くほどつまらない恋愛話。なんでこんな漫画が売れているのかわからない。そもそも真中は編集者なんかいなくても漫画が描けるタイプの漫画家だったのだ。このカウンセリングに付き合うという業務は本当に編集者の仕事なんだろうか。  寒い廊下でうつらうつらしていると、大きな音がして目が覚めた。慌てて立ち上がる。何が起きたんだ? 「女さんなんかにアタシの気持ちが一生わかるわけないのよ! このクソビッチが! 触らないで!」  会議室の中から物が倒れる音がして、女性の悲鳴が聞こえた。ドアが勢いよく開いて、額に青筋を浮かべた真中が走り出てきた。 「どうしたんですか?」と声をかける間もなく真中は「もう放っておいて。一般人にアタシの苦しさが一瞬でもわかるかもなんて思った自分がバカだった!」と言いながらエレベーターの方に早歩きで移動していく。  閉まっていくエレベーターの中から真中が睨みつけている。 「本当に大丈夫よ、若林ちゃん。仕事はきっちりするから。あの気持ち悪い女と話して腹立ちすぎて逆に頭スッキリしてきたわ。あの女、カウンセラーとして優秀すぎるかもしれないわね」  エレベーターに乗り込もうとする俺の手を真中が振り払った。 「もういいわ、ネーム絶対来週までに書いて送るから。若林ちゃん、安心して待ってて」  真中は目がギラギラしていた。以前の真中に戻ったように見えた。  会議室に戻ると、カウンセラーが顔を押さえてうずくまっていた。額から血が出ている。嘘だろ? 「大丈夫ですから」  蚊が鳴くような声で言いながら、立ち上がろうとしてよろけた。全然、大丈夫じゃない。自分の担当作家が他人を殴ってしまったという事実がシンプルに職務上の危機だということはすぐにわかった。真中を追いかける前に、この女性をなんとかしなければ。今一番大事にするべきは、俺の属するビクトリアム編集部、および俺が担当している作家の真中に悪評が立たないように事態を収拾することだ、と自動的に思った。  会議室を出ながら、次の人のための換気をしてないことに気がついたが、もう戻らなかった。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 若林信二…39歳。バツイチ。有幻社の青年漫画誌『ビクトリアム』の漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

ヒルビリー真中…29歳。漫画家。少女漫画風恋愛漫画『私の理解あるカレ君』のアニメ化が進んでいたが、会社都合で白紙に戻ってしまったことを恨む
ヒルビリー真中

ヒルビリー真中

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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