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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第七章・第二話 若林信二編】「傷つきやすさ大会」/鳥トマト

出版社で漫画編集者として働く若林信二。担当作のアニメ化が決まり、ライツ事業部の堅山賢一とやりとりを重ねるうちに、自らが人生の“周回遅れ”であると気づく。婚活はうまくいかず、編集部には怪文書が届き続け、担当作家の真中が漫画を描けなくなるなど不運が続く…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第七章(若林信二編)・第二話「傷つきやすさ大会」

「あ、ご主人様ですか? お待ちの間にこちらに緊急連絡先を書いていただいて」  ご主人様ではないが、仕方がない。俺は高円寺の整形外科の待合室で緊急連絡先に「若林」と書きながら、どうすればいいか考えていた。  奥の診察室で女性が泣いているのが聞こえる。緊急連絡先の隣の欄にある名前を見る。唯の花で「唯花」。それが今、診察室で泣いている女性の名前らしい。  真中に殴られた唯花さんは、よろけて机の角に額をぶつけて切ってしまったらしかった。泣いている唯花さんに声をかけ、付き添って整形外科までやってきて、今、というわけだ。  真中に待合室で電話をかけたが、出ない。LINEをしたところ「今電車の中でネーム切ってるから声かけないで。今日からちゃんと家探します。ネームできたら送ります」とだけ返ってきた。真中が「ネームを書く」と言って送ってこなかった例はない。電車の中で書いているというのも本当だろう。  ガラガラ、とドアが開き、診察室から唯花さんが出てきた。目を真っ赤にして、額には絆創膏を貼っている。 「大丈夫でした。縫うほどではないって。私がびっくりしすぎちゃっただけだったみたい。ごめんなさい」  そう言って、唯花さんはバツが悪そうに笑って目を伏せた。プロフィール画像ではAI生成画像みたいに見えた唯花さんが、急に人間らしく見えた。肌が白いので、絆創膏から染みている血の赤さが目立っている。 「山本唯花さん」と受付に呼ばれた。  俺が支払いをしようと立ち上がると、唯花さんが「いや、それは本当に大丈夫です」と強く制してきた。あまりにも強く腕を押さえつけられ、引き下がると、唯花さんは支払いに行った。受付でまごまごしている。全体的に動きがゆっくりした人のようだった。 「お会計四千二百円になります」 「あっ! そっか、この病院、カード使えないんですね。どうしよう」  結局払えないのかよ。立ち上がって唯花さんの隣で財布を出した。 「こっちで払っておきますよ。俺のせいで起きたことですし……」  俺が財布から現金を出すのを見ながら、唯花さんは「あとで返します」と語気強く言ってきた。小動物のような目を見開いている。なぜそんなに支払いにこだわるのだろう。しかも、払えないのに。 「じゃあ、これで……」  整形外科を出ると唯花さんが帰ろうとするので、思わず引き留めた。そういうわけにはいかないだろう。何より、真中が人を殴って怪我させたことを、あとからSNSに書かれたりなんかした日には大変なことになる。それに、真中に一体何を言ったのかも、まだ聞けていない。 「ちょっと、お話しして帰りませんか。お怪我してて本当にきついと思うので申し訳ないのですが……」 「えっ……真中さんは本当に男性の方とお付き合いされてたんですか?」  病院のすぐ隣にあるチェーンの喫茶店で紅茶を飲みながら、唯花さんは真ん丸な目をさらに大きく見開いていた。 「本人が言ってませんでした?」 「ええ、男性が好きかも、とはおっしゃってましたけど、まさか本当に交際されてたなんて……。『前のパートナーと一生一緒にいたいと思ってた』とおっしゃってましたので、私、てっきり婚約予定の女性の方と別れたショックで混乱されているのかと思ってました」  唯花さんは両手で合掌のようなポーズで口を覆う。 「性的指向って、環境やトラウマの影響も大きいので、固定的に考えなくてもいいんです。今は、そう思えないかもしれないですけど、人は歳を取れば、普通の幸せも選べるようになります。だから、ちゃんとあなたを人として愛してくれる素敵な女性もそのうち現れますよって申し上げたんです。そうしたら突然激昂されてしまって……」  唯花さんが善意百パーセントでそのことを口にしているのがわかった。明らかに、俺の人選ミスだった。でもそんなことを唯花さんに説明してもわからないだろうな、という確信もあった。 「本当に申し訳ない……」  唯花さんは顔を押さえて泣きだしてしまった。 「私、彼を傷つけてしまったかも」  それは傷つけてしまったかも、じゃなくて、めちゃくちゃ傷つけたでしょうね、実際、と思ったが黙っていた。この女性はおそらく東京でカウンセラーをするには能力が足りていない。いろんなユーザーが来ることを想定していない。勉強不足だ。  たださすがに、殴られれば相手に何かまずいことを言ってしまったのだということはわかる。そしてそのときに自分の痛みではなく、先に相手の痛みを慮る程度には、思いやりがある。ちょっと視野が狭くて、優しい人なのだ。  俺はそのあと一時間以上、唯花さんが泣きながら真中への対応を懺悔するのをずっと聞いていた。これで真中の悪評をSNSに書かれることはないだろう。  喫茶店を出ると、あたりはもう真っ暗だった。体を動かすと、どっと空腹感を覚えた。考えてみれば今日も昼から何も食べていない。 「今日は本当にすみません。ありがとうございました」  唯花さんは高円寺駅前でなぜか深々と頭を下げた。 「いやいや、こちらが悪いんです。じゃあ、俺はラーメンでも買って帰るんで」  唯花さんが顔を上げ、怪訝そうな顔で自分を見ているのに気がついた。 「夕ご飯、ラーメンだけなんですか? 体に悪いですよ」  またこの人は、と思う。そうやって田舎のおばちゃんみたいなおせっかい心を起こすから真中を怒らせたんでしょうに。 「独り身なので、なんでもいいんですよ。最近は家じゃ毎日カップ麺です。じゃ」  踵(きびす)を返して家の方に歩こうとすると、唯花さんが「あの」と言って引き留めてくる。 「あの、私、今、現金がなくって先ほどのお金、返せないかもしれなくって」  もう期待してないよ、と振り返りながら思う。 「先ほど毎日カップ麺だって、おっしゃってたじゃないですか。その、私、夕ご飯、作りましょうか?」 「は?」  俺は思わず口が開いた。真剣な顔。冗談ではなさそうだ。    数時間後、俺は自分の家のリビングでちんまりと、今日会ったばかりの女性が料理を作るのを眺めていた。  夕ご飯、作りましょうか? 何を言ってるんだこいつ、と思わなかったと言えば嘘になる。でも特に断る理由もない。どうせ家には誰もいないし、外食かカップ麺しか食べないのだと思い、じゃあお願いします、と言ってしまったのだった。俺の家に入り、玄関を見た唯花さんは口元を押さえてひと言、「どうしたんですか?」と言った。別に、どうもしない。いつも通りだ。玄関には飲みさしのペットボトルが行列をなし、ゴミ出しの日を逃したゴミ袋が二、三散乱して悪臭を放つ中、靴が引っくり返ったまま置いてあるが。  唯花さんはキッチンを見て調理器具がないことを確認し、冷蔵庫にも何もないことを確認したあと、「あの、食材を買ってきたいのですが」と伏し目がちに言って俺を見た。結局俺のお金で料理するのかよ、と思ったが自分の医療費も支払えないくらいお金がないなら当然かもしれないと思い直し、一万円札を渡した。  正直ヤケクソだった。もう、今日は疲れた。どうせ一万円あったって俺の欲しいものは何も買えないのだ。自分が何が欲しいのかすらよくわからないんだから。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 若林信二…39歳。バツイチ。有幻社の青年漫画誌『ビクトリアム』の漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

ヒルビリー真中…29歳。漫画家。少女漫画風恋愛漫画『私の理解あるカレ君』のアニメ化が進んでいたが、会社都合で白紙に戻ってしまったことを恨む
ヒルビリー真中

ヒルビリー真中

山本唯花…35歳。生成AI画像みたいな容姿のフリーランスのカウンセラー。真中をカウンセリングしてもらうために若林が探してきたが……
まだおじさんじゃない/鳥トマト

山本唯花

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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