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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第七章・第三話 若林信二編】「まだ東京で消耗してる人」/鳥トマト

出版社で漫画編集者として働く若林信二。担当作のアニメ化が決まり、ライツ事業部の堅山賢一とやりとりを重ねるうちに、自らが人生の“周回遅れ”であると気づく。担当作家の真中が漫画を描けなくなるなど苦労が続く中、若林はカウンセラー・唯花と出会い、変わり始める…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第七章(若林信二編)・第三話「まだ東京で消耗してる人」

 唯花さんは、「買い物に行く」と言ったまま小一時間帰ってこなかった。これ、もしかして渡した金を泥棒されただけなんじゃないかと思いだした頃、唯花さんは馬鹿みたいに大きなビニール袋を両手に下げて帰ってきた。 「自分の家から道具も持ってきちゃいました。だって調理器具も何にもないから。すぐ帰るつもりなんですけど」  玄関で息を切らしている唯花さんを見て思わず噴き出してしまった。 「なんですか!?」と唯花さんが顔を赤くする。そんなに一生懸命に買い物をしなくてもいいのに。この人、なんだか犬みたいだなあと思い始めていた。白くて、鈍くさくて、表情だけはくるくると変わる、目の大きなポメラニアン。  キッチンからいい香りがする。自分の家からこんなにいい香りがすることってあるんだ、と新鮮に思う。 「できました! 着席してください!」  ダイニングテーブルに座っていると、生姜焼きと、ワカメと豆腐の入った味噌汁、それに白米が目の前に運ばれてきた。 「召し上がれっ!」  唯花さんが両手をぱっと広げて笑顔で俺を見る。 「……あなたの分は?」  聞くと唯花さんは手を引っ込めて「一緒に食べていいんですか?」と言ってきた。いいに決まってるでしょ。 「おいしかったですか?」  食後、二人でキッチンに立ち、一緒に皿を洗っていると唯花さんが照れくさそうに言う。 「めちゃくちゃおいしかったですよ」  俺は唯花さんがよそってくれた白米を二杯もおかわりしていた。こんなにおいしいご飯を食べたのは本当に久しぶりだった。 「よかった。私、前の旦那には料理作るの、すごく下手くそだって言われてたんです。自信を取り戻せた気分です」  唯花さんはイタズラっぽく笑って目を伏せた。 「唯花さんは帰らなくていいんですか」  俺は彼女が洗ってくれた皿を受け取りながら聞いてみる。びしょ濡れで熱い指に手が当たる。 「私、一年前くらいに離婚しちゃって、家に帰っても誰もいないし、何にもないんです。そろそろ実家に帰ろうかなと思って、引っ越しの準備してるところだったんですよ」  小さくて白い唯花さんが、薄暗いワンルームで段ボール箱に囲まれて荷物の梱包をしているところを想像した。捨てられた犬みたいで可哀想だ。 「私、実家がすごく嫌で、どうしても東京に来たくって、三十くらいのとき、頑張ってマッチングアプリで探して、最初の夫と結婚したんです。でも、『お前には向上心がない』って言われて、二年で離婚されてしまって」 「向上心がない?」 「はい。元夫の周りの女性たちは、キャリアウーマンだったり、主婦をしてる方もいろいろ資格を取ったり習い事をしたりしてキラキラしてるのに、お前はどうして家事をしてるだけで一日終わるんだって……」  俺は婚活中に出会ったさまざまなキラキラ女子たちを思い出していた。確かに、元妻も、元カノも、ドラゴン女子も皆、向上心だけはあった。それは付き合う男性への横暴の上で成り立っていたのだが。 「東京でカウンセラーとしてやっていこうとしたんですが、それもダメだったみたいですね。今日も大切な先生を怒らせてしまったし。アルバイトとかもしてみたんですけど、全然『社員になる?』とかは言ってもらえなくて。貯金が減っていく一方で。もう今年三十五だし、親にも心配かけ続けてて。私、この街で働くにはあまりにも普通だし、能力も足りないんです。そんなこと自分が一番わかってるんですよ。だから専業主婦でいたかったんです。でもそれすら望みすぎだったみたい」  唯花さんは淡々と皿を洗い続ける。この人は、えらい、と俺は思った。俺よりずっと若いのに自分にできることとできないことが、はっきりわかっている。自分の人生に目を開いて向き合っている。俺は元カノが出ていって以降、ずっと自分の家が汚いことからも目を逸らし続けていたのに。  「今日、このまま泊まっていきませんか?」  自分の口から出てきた言葉にびっくりする。でも、それしか正解はないように思われた。唯花さんは黙って皿を洗い続けている。 「一緒にご飯食べてもいいって言ってくれるし、皿洗いもお手伝いしてくれるし、テーブルも拭いてくれるし……若林さんって優しいですね」  びっくりした。優しい? 俺が?  唯花さんは最後の皿を洗い、俺が呆然と持っていた布巾を取って、それを拭いた。 「本当にお言葉に甘えてもいいですか? 家に帰ると寒くて寂しくて」  そのあと、二人で交互にシャワーを浴びた。冬用のパジャマは一着しかなかったので、唯花さんに俺のパジャマを貸し、自分はシャワーを浴びてからTシャツとジャージを着て部屋に戻る。  ベッドの上にブカブカのパジャマを着た唯花さんが座っている。まるで最初からずっと、この家にいた人みたいに自然な光景に思える。 「私、今日、本当に全部夢みたいでした」  唯花さんが俺の腕の中で体を回転させながら囁くように言う。 「私、その……今まで男性に舐めてもらったことなくって。セックスって痛いことに耐える時間だと思ってたんです。今日は全部嬉しかった」  唯花さんの体はどこを触ってもマシュマロみたいに柔らかかった。 「こんな優しい人に会ったの初めて。なんで若林さんみたいな素敵な人が独身なんですか?」  こんなに褒めてくれる女性が今までいただろうか、と考える。 「僕は最初に結婚した相手が、不倫して家を出ていっちゃったんですよ。そのあとも同業者と付き合ってたんですけど、子供が欲しいから別れようって言われて、出ていっちゃいましたね」  独り言のように今までの恋愛遍歴が口から出てくる。言葉にすると、なんてしょうもないんだろう。 「誰も僕に優しいとか、言ってくれませんでしたよ。僕、一人暮らしも長いんで結構自分で掃除機かけたり皿洗ったりしてましたけど、今まで付き合った人全員そんなの当然だと言わんばかりでした」  唯花さんが腕の中で震えだした。急に心配になって顔を見ると、泣いている。 「そんなのひどい。搾取です。私もそうだったからわかります。夫婦だと、優しい方が、搾取されるんです。きっと若林さんもそうだったんですよ」  震える唯花さんを抱きしめながら、搾取、という言葉が脳に貼り付いた。確かに僕は、そのときそのときの彼女に喜んでもらうために全力を尽くしていたつもりだった。最初の妻にファッションがおかしいと言われれば直したし、元カノに誕生日プレゼントが気に入らないと言われれば買い直しに出かけたりした。知的で可愛い、自分と同レベルの女に好かれたい一心だった。でもそんな僕の二十代、三十代の自己顕示欲、文化への憧れ、彼女たちへの愛情は、ただ利用され尽くされ、搾取されただけだったのではないか。自分を本当に救ってくれるのは、この優しくて温かい体だけなんじゃないか。 「僕たちって似てるね」 「そんなことないですよ。若林さんの方がずっと……ちゃんとしてるし素敵です」  そりゃあんなカウンセリングしかできないお前よりは、と思ったが言わなかった。そんなことを言えば不可逆的に唯花さんを傷つけるだけだ。この人は、僕よりもずっと弱いし、柔らかくて、誰かに守られるべき可愛い生き物なのだ。言う意味がないことは言う意味なんかない。そう思うと考えた言葉は脳の中で解けていった。 「私のご飯が本当はおいしくなくても、絶対浮気しないでね」  唯花さんが泣きながら腕の中で丸まっている。布団の中でしっかり彼女を抱きしめた。小さい。柔らかい。いい香りがして、温かい。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 若林信二…39歳。バツイチ。有幻社の青年漫画誌『ビクトリアム』の漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

ヒルビリー真中…29歳。漫画家。少女漫画風恋愛漫画『私の理解あるカレ君』のアニメ化が進んでいたが、会社都合で白紙に戻ってしまったことを恨む
ヒルビリー真中

ヒルビリー真中

山本唯花…35歳。フリーランスのカウンセラー。元専業主婦のバツイチ。仕事がきっかけで出会った若林の家になぜか上がり込んできて……
まだおじさんじゃない/鳥トマト

山本唯花

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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