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Ado初の“顔出し”演出が「期待外れ」だったワケ。話題性が音楽を追い越してしまった“構造的欠陥”

Ado、初の“顔出し”が話題に

Ado

『ビバリウム Adoと私』Ado (原著), 小松 成美 (著)/KADOKAWA

 Adoが新曲「ビバリウム」のMVで初の顔出しをして話題を呼んでいます。隠されていた素顔を出すことで、彼女の音楽はどのように変わっていくのでしょうか?  今回の曲は、初の自伝ノンフィクション小説『ビバリウム Adoと私』をもとに作られました。作詞と作曲も自身が担当し、クローゼットの中で歌っていたという過去を思わせる歌詞に思いが込められています。  そのタイミングでの“顔出し”なのですから、決意がうかがえます。  そこで考えたいのは、Adoの歌と音楽の聞こえ方についてです。これまでは、声からビジュアルを想像して、それぞれの聞き手の中で”歌い手”という特殊なアーティストイメージを作っていくという関係性でした。  しかし、髪の毛や目などの横顔から、今回はじめてAdoという歌手を立体的に把握する手がかりが与えられました。同時に、それは正体不明という飛び道具を封印したことも意味します。つまり、ネットスラング的な肩書きである“歌い手”からふつうのボーカリストに転向したことになる。  ふつうのボーカリストとは、歌の良し悪しを含め、その声や言葉を発する人格としてのAdoが評価される俎上に上がったということです。

路線変更の成否を分けるものは?

 それを踏まえると、「ビバリウム」にはまだ“歌い手”の匿名性が残っていると感じます。クローゼットに閉じこもってレコーディングをしたというエピソードは以前からおなじみのものだし、楽器演奏の音数を増幅させて隙間を埋めつくしたアレンジや、言葉の音節を機械的に跳躍させたメロディラインも、やはり“歌い手”のカルチャーにとどまっている。顔を出した以外は、いつものAdoです。  これはちょっと期待外れでした。ソングライティングやサウンドの方向性も同様に大きく変わっていなければ、ビジュアル面の変化がもたらすはずの効果も半減してしまうからです。 「ビバリウム」には、その音楽的な驚きがありませんでした。  では、“歌い手”ではなく“ふつうのボーカリスト”として目指すべき音楽像はどこにあるのでしょうか。  それは、他ならぬAdoの内面にあるのだと思います。これまでは声だけを手がかりに全体像を想像していたものが、今度はビジュアルと声をリンクさせたその先にある彼女の内面に関心が集まります。その内面から発せられた歌詞、曲の実現こそが、路線変更の成否を分けるのです。
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“顔出し”という話題に音楽が負けてしまったと言えるワケ
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音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。X: @TakayukiIshigu4

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