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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第七章・第四話 若林信二編】「お家が天国」/鳥トマト

出版社で漫画編集者として働く若林信二。担当作のアニメ化が決まり、ライツ事業部の堅山賢一とやりとりを重ねるうちに、自らが人生の“周回遅れ”であると気づく。担当作家の真中が漫画を描けなくなるなど苦労が続く中、若林はカウンセラー・唯花と出会い、変わり始める…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第七章(若林信二編)・第四話「お家が天国」

「アタシを殴ったカウンセラーと一緒に住んでるゥ!?」  真中は後楽園のアフタヌーンティーで椅子にのけぞり、大袈裟に目を見開いた。そのあとテーブルに肘をつき、片手でぺちっと顔を押さえる。 「本当にすごい女ね。信じられないわ。若林ちゃんもだいぶんイカれてるわね」  真中が僕にギリギリ聞こえるくらいの声量でブツブツと呟き始めた。  真中はカウンセリングの翌日、本当にネームを上げてきた。唯花が眠っているベッドの上でネームを見て、僕はため息をついた。完璧なネームだった。面白くて、読みやすい。以前のように、ほとんど直すところがなかった。 「あのカウンセラーのおかげで自分がなぜ漫画を描いていたのか思い出しました」とメールには一文だけ書かれていた。 「それで、若林ちゃんはカウンセラーちゃんのどこが好きなの?」  真中がニヤニヤして聞いてくる。僕が言い淀んでいると、「いやいやいや、教えてよ~」と食い下がってくる。答えるまで、絶対に会話を終わらせないという強い意志を感じる。 「料理がうまいんですよ……」  真中に釣られて、思わずニヤニヤしてしまうのを抑えきれない。 「逆にカウンセラーちゃんは若林ちゃんのどこが好きなのかしら?」  真中がノリノリで質問を続ける。 「よくわかんないんですけど、優しいとか言われるんですよ。前の旦那とか、地元の人に比べて優しいって」 「カウンセラーちゃん、地元どこ?」 「広島らしいです」  真中は両手を叩いてギャハハ!と笑ったあとに、 「それはね、若林ちゃん、南北戦争の時代に解放された黒人さんが北部の白人に『あなたは優しい、私をムチで打たないから』って言ってるのとおんなじよ」  と吐き捨てた。そのあけすけさに僕はびっくりする。 「私だって田舎にいたときはオカマだとか女男だとか言われて、そりゃ酷い目にあったもんだわ。田舎だと女の人って奴隷みたいに扱われるしね。私のママだってそうよ。シンプルに東京がカネのない若い女に異常に優しい街なのよ。あーヤダヤダ。おもしろ」  真中は笑いすぎて涙目になっている。紙ナプキンで涙を拭く真中を見ながら、僕はそんなに笑うようなことか?と自分の気持ちが冷めていくのを感じていた。 「そもそも会って初日の男の家にいきなり泊まり込むって……すごいビッチじゃない? その女、大丈夫? 全部が早すぎよ。プロ彼女のメジャーリーグがあったら大谷翔平になれるわよ? ロマンス詐欺とかじゃないでしょうね?」  あんなにか弱く守るべき女性を詐欺師扱いする真中に、僕はだんだん腹が立ってきた。そもそも唯花が怪我したのはお前が殴ったからなんだぞ? それに、唯花は「舐めてもらう男に会ったことがない」とまで言ったんだぞ? 可哀想だとは思わないのか? 「でも、朝ご飯とか作ってくれるんですよ」  真中はまた真っ白な歯を大きく見せながら「それくらい私の元カレだって付き合いたてのときはやってくれま・し・た」と爆笑していた。ちっとも面白くない。嫌悪感が先立ってしまう。愛想笑いすら出てこない。 「何? そんな嫌そうな顔して? 俺の幸せをそんなふうに死んだカエルみたいに解剖しないでくれって言うんでしょ? なんか言ったら?」  咄嗟に痛いところを突かれ、言葉が出てこなかった。僕は唯花がこれ以上真中にひどく形容されるのを防ぎたかった。でも、真中の言うことは全て実際、その通りのような気もする。 「若林ちゃんって、結局、お金は稼げるけど、自分で家とか片付けられないから家にセックスできるお手伝いさんがいたら助かるってことなんでしょ? 利害が一致する便利な女見つかって本当によかったわね。きっと介護とかも甲斐甲斐しくやってくれるわよ」  なぜ真中はこんなに酷いことを言うのだろう。この世の誰もが、僕やお前みたいに頑張ったら、お金が稼げるわけじゃないのだ。唯花は能力不足だったかもしれないが、彼女なりに一生懸命仕事をしていた。家も、丁寧に片付けている。彼女なりに全力で生きている。どうして価値観の異なる自分より弱い女性をそんなに叩きのめそうとするのだろう。思えば僕が今まで付き合ってきた女性たちには今の真中と同様の、専業主婦になりたい女性への心底の侮蔑があったように思う。だからあんなに、産休育休を自分だけが取ることに忌避感を示していたのだと僕は今さら理解した。 「ねぇ、大丈夫、若林ちゃん? なんか客観性を失ってるわよ? 脳みそ溶けてるんじゃないの?」  真中が下卑た笑いでこちらを見てくる。 「ねぇ、私キレッキレの若林ちゃんが好きなのよ? 文化に生き文化に死ぬんじゃなかったの? 女くらいで変わらないでね?」  僕によくわからないお願いをしてくる真中を、なんだか身体から離れて遠くから見ているような気がしてきた。僕がキレッキレになった結果、一体何が得られたと言うのか。真中は作家だから、自分の名前を冠した本が残る。印税も売れれば売れるだけ入ってくる。でも僕は? この十七年間、ずっと仕事に身を捧げてきて残ったものって何もないじゃないか。 「でもまあ、若林ちゃんが幸せならよかったわ。私、若林ちゃんのこと好きなのよ。ずっと幸せになってほしいなって思ってたの。なんか憑き物が落ちたみたいな顔してるじゃない? 本当によかったわ」  真中が最後にそう締めて、打ち合わせは終わった。  中央・総武線の中で揺られながら、ふんわりと「真中先生ってキツイな」という感想だけが残った。何がキツイかについて考えるのはやめた。考えるのは疲れる。今までは年齢とともに衰えるのは体力だけだと思っていたが、脳も体の一部だ。何かについて悩み続けるということにも体力が必要なのだと痛感している。もう、僕はそんなに強くない。業務時間内に社会人として最低限の体面を保ち、仕事をするだけで体力を使い果たしてしまう。家に帰ってまで猛獣のような女性を相手にする元気はもうないのだ。  家にいる唯花を思い浮かべた。温かくてふわふわした彼女を思い浮かべるだけで力が湧いてくるような気がする。早くも僕は唯花のことを、自分を回復させるインフラみたいに思い始めている。  家の鍵を開けると、部屋の電気がついていた。人がいる音がする。玄関は綺麗に掃除されて、ペットボトルのゴミも、ゴミ袋もなくなっていた。床が雑巾がけされてピカピカになっている。エアコンの音がして、空気がいつもより少しだけ暖かい。  二階に上がると、唯花はソファに座っていた。膝にブランケットをかけて、スマホを見ている。テレビはついていない。僕の気配に気づいて、顔を上げる。 「あ、おかえりなさい。ご飯温めるね」  唯花はそう言って立ち上がり、鍋を火にかけた。味噌汁の出汁の香りが漂ってくる。その真ん中に、唯花の小さなふわふわした背中があった。まるでこの家の一部みたいだ、と思った。備え付けの食器洗い機のように、ずっとこの家に存在していたみたいな人だ。きっと僕はずっと、この光景が欲しかっただけなんだ。 「おてて洗ってきたら?」  優しい言い方に涙が出そうになる。僕はもう強くないのだ。家はこれくらい、温かくて優しい空間でないと、体が耐えられない。  思わず、料理する唯花に後ろから抱きついた。体中が柔らかかった。「何?」とくすぐったそうな唯花の声が聞こえ、首筋からほんのり石鹸の香りがする。  決めた。僕はこの幸福を守る。その結果、何を失うことになっても知るもんか。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 若林信二…39歳。バツイチ。有幻社の青年漫画誌『ビクトリアム』の漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

ヒルビリー真中…29歳。漫画家。少女漫画風恋愛漫画『私の理解あるカレ君』のアニメ化がうまく進まないなか、失恋が重なり、精神を病んでしまう
ヒルビリー真中

ヒルビリー真中

山本唯花…35歳。フリーのカウンセラー。元専業主婦のバツイチ。仕事がきっかけで出会った若林と意気投合し、なぜか流れで同居することに
まだおじさんじゃない/鳥トマト

山本唯花

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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