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『まだおじさんじゃない』現代中年 惑いまくり小説【第八章・第一話 堅山賢一編】「幸せな人たち」/鳥トマト

出版社・有幻社で働く堅山賢一はプロデューサーとして、漫画編集者・若林信二の担当コミック『私の理解あるカレ君』のアニメ化を進めている。上司が仕事を放り投げて異動したため激務を強いられ、家庭もうまく回らず、さらに後輩の山野と肉体関係を持ってしまい…… 「僕も五十歳になったときに、部長のような力を維持できているだろうか」――。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが“大人にならなければ”と自らを戒める中年の心の惑いを描く。

第八章(堅山賢一編)・第一話「幸せな人たち」

 花粉症で鼻がムズムズする。心なしか目も痒い。 「今日から『わたカレ』製作委員会に参加させていただく漫画家の真中です~。やだ、知ってます? 今後ともよろしくお願いしま~す」  俺は有幻社の会議室で、入ってくる人に挨拶する真中先生を見ていた。『私の理解あるカレ君』は地上波の深夜放送とネット配信を来年に控えて、ついに委員会が再組成された。今日がその復活後一回目の製作委員会会議。今回から真中先生も参加することになった。真中先生は会議室に誰よりも早く到着し、あとからやってくる委員会メンバーに袋から小分けのお菓子を取り出して手渡し、挨拶をしていた。やる気に満ちている。 「すみません、遅くなりました」  担当作家よりも五分遅れて会議室に入ってくる若林を委員会のメンバーが冷ややかな目で見ている。俺も最近は若林が時間通りに来ることをもはや期待しなくなっている。なんでこいつは業務にこんなにやる気がないんだろう? 考えても仕方がない。他人のやる気を出させることなんかできないのだから。 「アタシ、こんなにたくさんの人がアニメ化を支えてくれてるって知りませんでした。本当にアタシって幸せ者~! みんな今日はありがと! じゃあ来週からはリモートでよろしくね」  いくつかの業務連絡と、各社の自己紹介、そして真中先生の挨拶のあと、委員会は解散した。事前に俺から結構な量の資料を共有していたこともあり、著者がいても委員会はそんなに紛糾することなく和やかに進んでいった。 「堅山ちゃん、ランチ行かない? アタシここの社食、前から行ってみたいと思ってたの」  会議のあと、真中先生に話しかけられ、俺はびっくりした。てっきり若林と編集部に戻るものかと思っていた。 「えっ、私も行ってもいいですか!?」  一緒に委員会に出ていた山野が持ち前の明るさでついてこようとする。 「やだ~可愛い後輩ちゃん! もちろんよ~」  真中先生が山野と両手でハイタッチしてキャピキャピとしているところに、様子を察した若林がやってきた。 「あら、いたの? アタシ今月の原稿、もう送ったわよ?」  真中先生の声が突然低くなり、若林が俯(うつむ)いて固まった。 「たまには食事でもと思いまして……」 「いや、アタシ、アニメについて聞きたいことがいっぱいあるの。堅山ちゃんたちとご飯行くから。若林ちゃんは漫画のことしかわかんないでしょ? 来なくっていいわよ」  真中先生に制されて若林がしゅんとなってしまう。山野と顔を見合わせる。どういうことだ? 「へ~、じゃあ堅山ちゃんは鳥取の出身なんだ。あの辺、妖怪ロードとか『名探偵コナン』のふるさと館とかあっていいわよねぇ。バケモノ漫画の名産地よ」  俺と真中先生と山野は社食で揃ってざる蕎麦を食べていた。三月に入って暖かくなってきたし、なんだかさっぱりしたものが食べたい気分だった。 「私、入社前からずっと『わたカレ』のファンなんです。作画配信もずっと観てました。毒舌が超面白くて。真中先生とご飯食べれるなんて夢みたい」  山野が蕎麦を啜りながら興奮気味に喋り続ける。 「やだ、それメンシプ限定のシールじゃない。本当にちゃんと配信観てんのね」 「そうなんですよ~!」  真中先生が山野のスマホの裏に貼ってあるシールを指さして嬉しそうにしている。メンシプ、というのがメンバーシップの略だということが一瞬、わからなかった。要するに、このシールはファンの中でもそこそこコアな人しか持っていないグッズだったらしい。 「真中先生とお話しできるなんて、本当に嬉しい! このプロジェクトは堅山先輩がすっごい頑張ってくれてるんで、絶対いいアニメになりますよ!」  山野が隣に座る俺の太ももを思いっきりバンバン叩く。痛い。向かいに座っている真中先生が俺と山野を交互に見比べ、俺の手にも一瞬目をやり、指輪があることを確認したあと、 「アンタたち、距離すごい近いわね。付き合ってんの?」  と言った。俺が慌てて、いやいやと否定しようとすると、真中先生が俺の口を塞ぐようにずいっと手を突き出してきて面食らう。 「いいの。言えないことはあるわよね。誰にも言わないから、いいのよ」  山野と顔を見合わせる。山野は困ったように眉を顰めている。なんだその顔。お前のせいだぞ。 「やっぱりねぇ、道ならぬ感情がある人にしかわからないものってあるから。アタシ、倫理観ある人、嫌いなの」  初めて聞く人間の好みに俺はたじろいだ。そうも面と向かって「倫理観がない」と言われることはそうそうない。 「道徳の教科書みたいに生きていきたいなら、道徳の本でも書いてりゃいいじゃない。日向の仕事がしたいなら、漫画なんかに関わらないでほしいわ。こっちは自分の命削って人の夢を作ってんだから」  急に真面目なトーンになった真中先生に思わず見入ってしまった。変な人だとは思っていたが、彼なりにいろいろ考えながら仕事をしているのかもしれない。 「な~んてね! 冗談よ! そんなことより、今度堅山ちゃんの実家界隈、一緒に行かない? アタシ、妖怪ロード行ってみたいのよ。なんか楽しいらしいじゃない?」  蕎麦湯を啜りながら、楽しそうに鳥取旅行の話をしてLINEを交換している真中先生と山野を見ていた。若いっていいことだ。次々と新しい友達ができるし、どこにだって行ける。  食事が終わって、真中先生を見送りがてら気になっていたことを聞いてみる。 「若林とは何かあったんですか?」 「な~んにもないわ。ただアタシが若林ちゃんにあんまり興味なくなっちゃったのよね。もともと彼のことは担当編集として有能だとは思ってないし」  有能じゃないと感じた人間は即座に見切る真中先生の冷たさにゾクッとする。 「今後は堅山ちゃんが有幻社のアタシの窓口になってくれない? 最近アニメの監修物チェックの連絡ばっかりじゃない。若林ちゃんを経由するだけで半日とか一日とかロスしちゃうから嫌なのよ。スラックとかに入れてよ」  確かにその方が効率的かもしれない。 「じゃあ、漫画は漫画で若林が、アニメはアニメで直接、私か山野から連絡するようにしますね」  と俺が言うと、真中先生は細い目をさらに細めてにっこりした。狐みたいだ。 「ちなみに、若林の何が気に入らなくなったのかお伺いしてもいいですか? 今後、若林と同じ轍(てつ)を踏まないように」  エレベーターのボタンを押しながら真中先生に聞いてみる。 「若林ちゃんはね、勝手に一人だけ幸せになっちゃったから、ムカついてるの。アタシ、幸せな人苦手なのよ」  真中先生の言葉に、また薄ら寒い思いがする。俺の私生活が破綻していることを完全に見透かされている気がする。どうしてわかるのだろう。 「幸せな人って、自分の今の暮らしを守ろうとしちゃうのよね。無意識にそれが会話してても出るのよ。そんな人と打ち合せとかするの、つまんないなって」  エレベーターに乗りながら真中先生は振り返って目を細める。 「若い彼女つくったり、何してもいいからさ、あなたもずっと不幸でいてね」  真中先生を乗せて閉まりゆくエレベーターのドアを見ながら、幸せってなんだろう、と思った。妻がいて、息子がいて、毎日ランチが食べられる。俺は一見、十分に幸せだ。それなのに、ずっと何かが足りない気がする。俺は欲張りなんだろうか。それとも世間で言う「幸せ」と俺が本当に「幸せ」だと思っていたものがズレていたことに今さら気がついてしまったのだろうか。  しばらくは真中先生の担当ができそうだな、と思った。形がわからないものは手に入れようがない。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 堅山賢一…39歳。妻子あり。有幻社でアニメをプロデュースするライツ事業部に勤務。ヒルビリー真中の『私の理解あるカレ君』のアニメ化担当
まだおじさんじゃない/鳥トマト

堅山賢一

若林信二…39歳。バツイチ。有幻社の青年漫画誌『ビクトリアム』の漫画編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二

ヒルビリー真中…29歳。漫画家。『私の理解あるカレ君』のアニメ化が進んでいたが、会社都合で製作委員会が解散になったことを恨んでおり……
ヒルビリー真中

ヒルビリー真中

山野美羽…28歳。青界プロダクションから有幻社のライツ事業部に転職してきた。明るくて元気。上司である堅山と体の関係を持ってしまう
山野美羽

山野美羽

漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『二月に殺して桜に埋める』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『東京最低最悪最高!』『アッコちゃんは世界一』などがある。Xアカウント:@tori_the_tomato
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