更新日:2026年07月24日 18:27
恋愛・結婚

【新連載】教会で交わした“幼い約束”が、運命を動かす 『五十年目の両想い』/新堂冬樹

50年間、ひとりの女性だけを想い続けた男がいた。 恋も、結婚も、別れも経験した――それでも、心の奥にはずっと「あの日」の少女がいた。 『無間地獄』『カリスマ』『忘れ雪』。ヒトの欲望と本音を抉り出す人間ドラマから、胸を締め付ける純愛作品まで、ジャンルを超えて数多くの読者を魅了してきた新堂冬樹が、新たな長編『五十年目の両想い』を連載開始。 これは、人生最後の恋であり、人生最初の恋の物語。 五十年目の両想い

プロローグ 太陽の少女

「こっちこっち! 豊ちゃん! 早く!」  真理亜がポニーテイルを揺らしながら、空き地を駆けた。 「待ってよ……真理亜ちゃん……速いよ……」  豊は脇腹を押さえながら、真理亜を追った。  真理亜はクラスの女子で一番足が早く、豊は一番足の遅い男子だった。 「だからのろまなかめって言われるんだよ! もう、置いてっちゃうからね!」  遠ざかるポニーテイルを見失わないように、豊は必死に追いかけた。  豊がかめなら、真理亜はうさぎのようだった。  母に読んでもらった「うさぎとかめ」では、最後はかめがうさぎに勝利する。  でも、豊は真理亜を追い抜きたくなかった。  真理亜が疲れて休んでいるなら、元気になるまで豊も一緒に休むだろう。  真理亜が躓き転倒したなら、手を取り豊も一緒に走るだろう。  だが、豊は知っている。  真理亜は疲れないし、躓いたりしない……決して、豊に追いつかれたりしない。  それでよかった。  豊は、真理亜の背中を見ているだけで十分だった。  揺れるポニーテイルを見ているだけで、振り返った呆れ顔を見ているだけで幸せな気分になれた。  鉄の靴を履いたように足が重くなっても差し込むような痛みが脇腹に広がっても、豊が足を止めないのは真理亜を見失わないためだった。  追いつけなくてもいい……けれど、見失ってしまったら揺れるポニーテイルも呆れた顔も、眼にすることができなくなる。 「か~めさん、こ~ちら! 早く! 早く!」   小高い丘に立ち止まった真理亜は、飛び跳ねながら豊に手招きした。  豊は足を止め、黄金色の陽光に包まれた真理亜に見惚れた。     豊が大人になったら、太陽みたいなお嫁さんがきてくれるといいな。  不意に豊は、母の言葉を思い出した。    太陽は人間じゃないよ。  太陽みたいな人ってことよ。  どんな人なの?  お空から、どんな人にも公平に日光を注いでくれる太陽みたいな人……豊ちゃんがずっと愛し続けられるような人。そんな人が、豊ちゃんのお嫁さんになってくれると母さん、嬉しいな。    太陽みたいな女の子、いるかな?  うん、きっと、豊ちゃんを照らしてくれる人が現れてくれるよ。 「僕の太陽……」  豊は真理亜に見惚れたまま呟いた。 「もう、早くきて! 遅いよ! か~めさんこ~ちら~、か~めさんこ~ちら~!」  真理亜がビョンビョンとび跳ねながら、手を叩いた。  豊は歯を食い縛り、小高い丘を駆け上った。  真理亜のもとに辿り着くと同時に、豊はへたり込んだ。 「男の子でしょ? もっと強くならなきゃ嫌いになっちゃうよ!」  「え! 真理亜ちゃん、僕のこと好きなの!?」  豊は声を弾ませ、顔を輝かせた。 「好きだよ! 豊ちゃんは真理亜のかわいいペットだから!」 「ペット!?」  豊は自分の顔を指差し、素頓狂な声を上げた。 「うん! のろまなかめさん!」  真理亜が声を上げて笑った。 「僕、ペットは嫌だな……」  豊はもじもじしながら言った。 「ペットでいいの! それより、早く入ろう!」 「どこに行くの?」 「結婚するところ!」  真理亜が、蔦が絡まり罅の入った老朽化した白い外壁の建物を指差した。 「結婚?」  豊は首を傾げた。 「うん! 私のパパとママも、ここで結婚したの」 「お化け屋敷みたい……」  豊は思ったことを口にした。 「お化け屋敷じゃなくて教会! 古くなったから壊して新しくするのよ! パパとママが結婚したところをお化け屋敷なんて、ひどい! もう、豊ちゃんはいらないから!」  真理亜が顔を真っ赤にして怒った。 「ごめんね……もう言わないから!」  豊は半べそ顔で謝った。 「嫌だっ、許さない! のろまなかめはいらない!」  真理亜は豊にあかんべえをし、教会に向かって走った。 「あっ、ちょっと待って!」  豊は慌てて真理亜のあとを追った。  真理亜は黄色と黒の立ち入り禁止のロープを飛び越えた。 「真理亜ちゃん、こっちに戻ってきて!」  豊は大声で言った。 「いいから、豊ちゃんも早くおいでよ!」  真理亜が両手で手招きした。 「そこは入ったらだめなところだよ! 真理亜ちゃんが戻ってきて!」  豊も両手で手招きした。 「男の子でしょ! 意気地なしっ。真理亜一人で行くからいいもん!」  真理亜は頬を膨らませ、踵を返すと教会のドアを開けた。 「真理亜ちゃん!」  豊は、真理亜のあとを追いロープを潜り教会に足を踏み入れた。 「え……」  ステンドグラス越しに射し込む五色の陽光を背に、聖壇に立つ真理亜の姿に豊は息を呑んだ。 「じっと見ないでよ、気持ち悪いな」  真理亜が顔を顰めながら、ポシェットからなにかを取り出した。 「あ、ごめん……」  豊は眼を逸らし俯いた。 「はい!」  顔を上げると、真理亜がキラキラ光るガラス玉のついたおもちゃの指輪を差し出してきた。 「これは?」  豊はきょとんとした顔を真理亜に向けた。 「結婚指輪を知らないの?」 「結婚指輪?」 「うん。教会で結婚するときに、男の人が女の人の指に嵌める指輪だよ」  真理亜が言いながら、おもちゃの指輪を豊に差し出した。 「ん? なに?」  豊は訊ねた。 「受け取ってよ」  豊がおもちゃの指輪を受け取ると、真理亜が掌を広げた右手を伸ばしてきた。 「早く!」 「え?」 「薬指に指輪を嵌めるのよ。豊ちゃんは、結婚式のことをなんにも知らないのね」  真理亜がおませな表情で言った。  豊の心臓が高鳴った。 「あのさ……やっぱりいい」  大人になったら、僕と結婚してくれるの?  豊は、喉元まで出かけた言葉を呑み込んだ。 「なによ?」  真理亜が怪訝な顔で言った。 「ううん、なんでもない」  豊は真っ赤になった顔を横に振った。 「なによ!? 言いなさいよ!」  真理亜が厳しい表情で命じてきた。 「真理亜ちゃんは、大人になったら……お嫁さんになってくれるの?」  豊は勇気を振り絞って訊ねた。 「誰のお嫁さん?」  真理亜が首を傾げた。 「……ぼ、僕の」  豊は伏し目がちに、消え入りそうな声で言った。  真理亜が大きく眼を見開き、豊をみつめた。  五秒、十秒……沈黙が続いた。  豊の胸は緊張と苦しさに、爆発してしまいそうだった。   不意に、真理亜の笑い声が沈黙を破った。 「豊ちゃんのお嫁さんになるわけないじゃーん!」  真理亜が笑いながら言った。 「そ、そうだよね」  豊は胸の痛みを、懸命に作った笑顔でごまかした。 「真理亜が大人になったときに結婚する練習よ。豊ちゃんは、真理亜の王子様の代わりをやって! さあ、早く指輪を薬指に嵌めて」  真理亜が広げた左手を上下に揺らしながら催促した。 「あ、ああ……うん」  豊は慌てて真理亜の左手を取り、おもちゃの指輪を薬指に嵌めた。  「真理亜が神父さんになって愛の誓いの言葉を言うから、誓います、って言うのよ」  真理亜は言いながら、反対側の手で紙切れを取り出した。  真理亜の言葉の意味がわからなかったが、豊は頷いた。 「あなたは、真理亜ちゃんをずっとずっと愛することを誓いますか?」 「うん!」  豊はすぐに返事した。  豊は、真理亜のことを大人になっても変わらずに好きであり続ける自信があった。 「うんじゃなくて、誓います、って言うの!」  真理亜が厳しい口調で指摘した。 「あ、ごめん」 「じゃあ、やり直すわよ。あなたは、真理亜ちゃんをずっとずっと愛することを誓いますか?」 「誓います!」    約束するよ。大人になっても、真理亜ちゃんのことが大好きだから。 「あなたは、病気のときも、元気なときも、お金がないときも、お金持ちのときも、真理亜ちゃんをずっとずっと愛することを誓いますか?」 「誓います!」  約束するよ。どんなときでも、真理亜ちゃんのことが大好きだから。 「新郎は新婦に愛のキスをしてください」 「え? しんろうって?」  豊は首を傾げた。 「男の人のことよ。新婦は女の人のこと」 「え……じゃあ、僕が真理亜ちゃんに……」  豊の心臓が大きく音を立てて鳴った。 「豊ちゃんのエッチ! そんなわけないでしょ! キスをするまねよ」 「あ……そうだよね。ごめん……」  豊は耳朶まで赤く染めて俯いた。 「ほら、早く!」  豊が顔を上げると、真理亜が眼を閉じていた。  豊は、恐る恐る真理亜に顔を近づけた。  真理亜の唇まで三十センチ、二十センチ……。  豊の心臓は爆発してしまいそうだった。  真理亜の唇まであと数センチというところで豊は止まった。  このまま真理亜ちゃんにキスしたら、僕たちは結婚できますか?  豊は心で神様に訊いた。  胸の鼓動が高鳴る……高鳴る……高鳴る……。  豊は眼を閉じた。  罰が当たってもいい。  おじいちゃんになっても、真理亜の笑顔をそばで見ていられるのなら……。  唇になにかが当たった。  豊は眼を開けた。  真理亜の掌が目の前にあった。 「終わり! 真似だって言ったでしょ! 本当のキスは、豊ちゃんじゃなくて真理亜の王子様とするんだから!」  真理亜が掌越しに豊を睨みつけてきた。 「あのさ……真理亜ちゃんの王子様って、どんな人?」  豊は怖々と訊ねた。   聞きたくなかった……でも、聞きたかった。  真理亜がお嫁さんになりたい人が、どんな王子様なのかを。 「んーっとね……顔がかっこよくて、足が速くて、野球がうまくて、勉強ができて、優しい人!」  真理亜が理想の王子様の条件を言うたびに、豊は絶望した。  すべての条件が、豊から外れていた。  もしかしたら、優しさだけは当て嵌っているのかもしれない。  だが、自分が真理亜の理想の王子様像から懸け離れていることはわかった。 「豊ちゃんのお姫様はどんな人?」  真理亜が無邪気な顔で訊ねてきた。 「僕のお姫様?」  豊は、自分の顔を指差した。 「そう、豊ちゃんはどんな女の子をお嫁さんにしたいの?」    真理亜ちゃんだよ!  口には出せなかった。  言葉にして、笑われるのが怖かった。 「真理亜じゃないの?」  真理亜が不機嫌な顔で訊ねてきた。 「え……」  予想外の問いかけに、豊は口籠った。     だって、僕は真理亜ちゃんの理想の王子様になれないから……。  これも、口には出せなかった。 「豊ちゃんのお姫様は真理亜だよ! ほかの女の子をお姫様にしたら、絶交だからね!」  真理亜が頬を膨らませ、ぷいっと横を向いた。  絶交って言われなくても、僕のお姫様は真理亜ちゃんだけだよ。  豊は心で告白した。  いつの日か、言葉で告白できる日がくるのだろうか? 「はい! これ」  真理亜がおもちゃの指輪を薬指から外して、豊に渡してきた。 「え?」  豊は首を傾げ、おもちゃの指輪を受け取った。 「いらないからあげる。真理亜の王子様は、キラキラのダイヤモンドの指輪をくれるから! 楽しみだな!」  真理亜は弾ける笑顔で言い残し、スキップしながら教会の奥に向かった。  豊は、掌に乗せたおもちゃの指輪をみつめた。 「豊ちゃん、凄いよ! こっちにおいでよ!」  真理亜が興奮した口調で言った。 「え? なぁに……」  おもちゃの指輪から視線を真理亜に移した豊は息を止めた。  ステンドグラス越しに射し込んでくる陽光……黄金色に神々しく染まる聖母マリア像と一体になった真理亜が、弾ける笑顔を浮かべた。 小説家、実業家、映画監督。1998年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無間地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『虹の橋からきた犬』『そのヘビ、ただのヒモかもよ!』『シン人間失格』など、著書多数。芸能プロダクションも経営し、その活動は多岐にわたる。