更新日:2026年08月19日 18:47
恋愛・結婚

今でも色褪せない、ほろ苦い放課後の記憶 『五十年目の両想い』/新堂冬樹

【これまでのあらすじ】 五歳の少年・豊は、同級生の真理亜に恋をした。廃教会で交わした幼い結婚式ごっこ。おもちゃの指輪に込めた「愛します」の誓いは、子どもの遊びでは終わらなかった。それから五十年――。 児童文学出版社「童夢ファクトリー」を営む五十五歳の豊は、時代の変化に戸惑いながらも、子どもたちに夢を届ける本づくりに情熱を注いでいる。勝ち気な編集長・白川美沙との何気ないやり取りのなかで、豊の脳裏には、幼い頃からずっと忘れられない真理亜の面影がよみがえる。 【主な登場人物】 豊(ゆたか)
五十五歳。児童文学出版社「童夢ファクトリー」社長。穏やかで争いを好まない性格。五十年前に抱いた初恋を、いまも胸の奥にしまい続けている。 真理亜(まりあ)
豊の幼なじみ。明るく自由奔放で、いつも豊を振り回してきた”太陽のような少女”。豊にとって、決して忘れられない存在。 白川美沙(しらかわ・みさ)
「童夢ファクトリー」編集長。豊の元部下で、令和世代らしい感性を持つ仕事のパートナー。歯に衣着せぬ物言いで豊を翻弄するが、その姿はどこか真理亜を思い出させる。 【前回】⇒「勝気な部下の仕草に、初恋の面影を重ね合わせて」 五十年目の両想い

1-2 セピア色の記憶

 豊は眼を閉じ、四十年前に時を遡った。   『君のことはタイプじゃないって気持ちを伝えて、チョコレートを返すんだよ』  放課後の教室には、豊と彼女の二人だけだった。 『せっかく手作りしてくれたのに、悪くない?』 『あら、じゃあ、豊ちゃんは陽子ちゃんとつき合うの?』  彼女が厳しい表情で訊ねてきた。 『ううん』  豊はすぐに首を横に振った。  怒られたくないというよりは、誤解されたくなかった。 『だったら、はっきり言ってあげるのが優しさでしょ? その気がないのに手作りチョコなんて受け取ったら、気持ちを受け取ったのと同じだから陽子ちゃんが期待するじゃない』 『わかったよ。彼女にチョコレートを返してくるよ』 『がっかりしないで。私も、豊ちゃんにちゃんと手作りのチョコレートを用意してきたから』  彼女が学生鞄から取り出したピンクのハートの箱を、豊の机の上に置いた。 『ありがとう!  手作りしてくれたの!?』  豊は感激の声を上げた。  彼女には中学生の頃にもバレンタインデーに「チロルチョコ」や板チョコは貰ったことはあったが、手作りは初めてだった。 『あ、ちょっと待って。豊ちゃんのはこっち』  彼女が学生鞄から別の四角い箱を取り出し、豊に手渡した。 『ありがとう。開けてもいい?』  豊は言いながら、ハート型の箱にちらりと視線をやった。  彼女が、ハート型の箱のチョコレートを誰にあげるかが気になって仕方がなかった。 『いいよ。早く開けて』  彼女に促され箱を開けると、左右非対称の歪んだハート型のチョコレートが視界に飛び込んできた。  ところどころ、縁も欠けていた。  『失敗しちゃったハートチョコだけど、味は変わらないから』  彼女があっけらかんと言った。  彼女に悪気がないことはわかっていた。  わかっていても、傷ついた。  チョコレートを作り直してでもあげたい男の子が自分ではないということに……。 『ありがとう……家に帰ってから、大切に食べるね』  豊は複雑な思いを笑顔で隠した。 『いま食べてよ。味が気になるから』 『味見してないの?』 『したよ。でも、男の子の味の好みも知りたいから。早く食べて感想を教えて!』  彼女の言葉で、豊の感想ではなく本命の男の子にあげても大丈夫かどうかを知りたいのだということがわかった。 『いただきます』  豊は変形ハートのお尻の部分を齧った。  口の中に、ほどよい甘さのカカオの味が広がった。  まずい。  そう言えば、彼女は本命の男の子にチョコレートをあげないだろうか? 『どう? おいしい? 本当のこと教えてね』  彼女が真剣な顔で身を乗り出し、豊の感想を待った。 『とっても、おいしいよ!』  豊は素直な感想を述べた。  彼女に嘘を吐くことなど、豊にはできなかった。 『よかった! じゃあ、佐野君にあげてくるね!』  パッと顔を輝かせた彼女が席を立ち、弾む足取りで教室を出た。  佐野宅麻……彼女の本命は、野球部のエースで四番の真田広之似の美少年だった。 『佐野君か……。勝てるわけないよね』  一人取り残された豊は、自嘲しながら呟いた。  頬に衝撃——美沙のビンタで回想の扉が閉まった。 「痛いよ……いきなりぶつなんて、ひどいな」  豊は頬を押さえ、美沙に抗議した。 「すみません。力が入り過ぎました」  美沙が苦笑しながら、潰れた蚊と血が付着する掌を豊の顔の前に近づけた。 「あ……蚊ね」  豊も苦笑した。 「軽井沢にも蚊はいるんですね……っていうか、いまさらですけど、どうしてこんな交通の便の悪いところを事務所にしたんですか?」  美沙が思い出したように訊ねてきた。 「十年前だったら都内に構えただろうけど、いまは打ち合わせもリモートで済むしゲラのやり取りもPDFだし、なにより、君が東京のマンションを引き払って実家に戻っただろう? それが、軽井沢の別荘を事務所にする決め手になったんだよ」  美沙は豊のあとを追うように「日光社」を辞めてから、長野県の実家に戻った。  美沙の実家は豊の別荘のある軽井沢町まで電車で十五分くらいの距離にある。 「なるほど、そういうことだったんですね。でも、そもそもどうして軽井沢がいいと思ったんですか? 別荘があったからですか?」  美沙が質問を重ねてきた。 「自然に囲まれた場所で生まれたから、緑が多いところが好きなんだよね」 「社長はたしか、九州の生まれですよね?」 「うん、長崎だよ。『童夢ファクトリー』は子供に夢を与える世界観を創作する仕事だし、慌ただしい都会よりゆったり時が流れる環境のほうがいいアイディアが浮かぶと思ってさ」  不意に、豊の脳裏に蔦が絡まり罅だらけの老朽化した白い外壁の建物が蘇った。  あの廃墟のような教会も、三十年前に建て直されていた。 「私、離婚の傷心で東京を離れたかったのかな、と思ってました」  美沙が笑った。 「まさか。そんなにガラスのハートじゃないよ。それに、離婚したのはもう十五年以上も前だし」  豊は苦笑した。  自分が別の女性と結婚していた時期があったことが、いまでも信じられなかった。 「十五年かぁ。社長は、再婚する気はないんですか? 顔は中の中って感じですけど性格はめちゃめちゃ優しいし、経済力もあるし、その気になれば再婚相手はいくらでもいるでしょう?」 「その気になれば……か」  豊は独りごちた。  その気になれる相手は、昔もいまもこれからも一人しかいない。 「私があと十年歳を取っていたら、社長を貰ってあげてもいいんですけどね」  美沙が冗談めかして笑った。 「嬉しいこと言ってくれるね。その気持ちだけで、あと十年は現役でいられそうだよ。『ハチミツ村』の装丁案は令和仕様の君のセンスに任せるから、この線で進めていいよ」  豊は冗談めかした言葉を返し、美沙に指示を出して席を立った。 「どちらへ?」 「旅行だよ」 「旅行って、どこにですか?」  美沙が怪訝な顔で訊ねてきた。  無理もない。 「童夢ファクトリー」を創立して五年間で、旅行など一度もしたことがなかった。 「長崎だよ」  豊は動揺が顔に出ないように、さらりと言った。 「長崎って、社長の生まれ故郷じゃないですか。実家に里帰りですか?」 「里帰りじゃないけど、古くからの友人に会いにね。土日だけ泊まって、月曜の朝は普通に出社してるから」 「あ~っ! 怪しいぞ。その友人って、女の人でしょう?」  美沙が疑わしそうに細めた眼で豊をみつめた。 「まあ、そんなところだ。はい、邪推はここまで。今日は、君も帰っていいよ。じゃあ、また月曜日に」  豊は美沙の質問の追い討ちがこないように早口で言い残して二階……自宅に続く階段に向かった。 「カステラ、待ってまーす!」  背中を追ってくる美沙の声に、豊は振り返らずに右手で応え階段を上がった。 小説家、実業家、映画監督。1998年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無間地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『虹の橋からきた犬』『そのヘビ、ただのヒモかもよ!』『シン人間失格』など、著書多数。芸能プロダクションも経営し、その活動は多岐にわたる。