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「いたずらに戦って死ぬのは、匹夫の勇である」明治政府近代化の立役者・江藤新平、なぜ「佐賀の乱」を起こし“晒し首”の刑に処されたのか

 今から157年前、1868年に起きた明治維新。封建的な身分制度と幕藩体制から、近代的な中央集権国家へと大きく転換し、日本は近代国家としての基盤を築いた。  明治政府で司法制度の近代化に尽力しながらも、征韓論争で西郷隆盛らとともに下野、不平士族を率いて「佐賀の乱」を起こし処刑されてしまったのが、江藤新平である。その最期は梟首(晒し首)というむごいものだった。 侍は「幕末・明治」をどう生きたのか 書影 ここでは、幕末~明治の動乱を生きた9人の人生を描いた文庫『侍は「幕末・明治」をどう生きたのか』(河合 敦著・扶桑社刊)より、江藤新平の最期を抜粋して紹介する。

「佐賀の乱」で敗走、西郷隆盛に助けを求めるも…

西郷隆盛

※画像はイメージです(以下同)

 政府は、佐賀県の反乱士族を賊徒と認定し、大久保は自ら率いた兵と熊本鎮台兵に加え、福岡、小倉、三潴などの士族たち(二千人)を集め、乱の鎮圧に投入した。  こうしていくつかの陸戦を経て、二月二十七日には完全に佐賀県士族たちを瓦解させ、三月一日、佐賀城に入ったのである。  このとき、すでに新平は佐賀にいなかった。早くも二十三日には勝ち目がないと判断し、征韓党に解散を命じ、戦線から離脱していたのである。  ただ、逃亡したわけではなかった。彼が向かった先は、鹿児島県だった。多数の兵力を抱える西郷隆盛に援軍を求めたのである。  さらに逃げた理由は、仲間の命を守るためでもあったという。佐賀から離脱する際、新平は反対する同志たちに向かい「大勢は決した。いたずらに戦って死ぬのは、匹夫の勇である。  私は死を惜しんでいるのではない。平生の志を貫くのだ。それに、突然、征韓党を解散して私が佐賀から脱すれば、仕方なく兵たちは戦いをやめ、潜伏の準備をするだろう」と述べている。  こうして仲間数名と船で鹿児島県へ向かい、西郷が静養していた鰻(宇奈木)温泉へたどりついた。西郷は快く新平と会ってくれた。三時間ほど話し合いがおこなわれ、翌日も膝をつき合わせての密談は四時間に及んだ。  ときには西郷が激高することもあったようで、部屋の外まで声が漏れ聞こえてきたという。結局、西郷は新平の要請に応じなかった。

日記には大久保の喜びぶりが残されている

 ただ、江藤のために船を仕立て、鹿児島城下で行くようすすめた。そこで新平は城下へ入り、西郷の右腕・桐野利秋と話し合った。  桐野は新平の身を守ることを約束し、鹿児島にとどまるよう勧めたものの、挙兵には応じなかった。ここにおいて新平は、東京に戻って堂々と政府の参議たちに弁明することに決めた。  ところが鹿児島を発した船が途中で難破してしまう。そこで陸路で日向飫肥に行き、征韓論で下野した小倉処平の助力を受け、仕方なく高知県を目指すことにした。  林有造をはじめ、ここには政府に不満を持つ士族たちがいたからだろう。しかし林有造や片岡健吉ら高知県士族たちは新平への協力を拒否した。  すでに佐賀の乱は完全に鎮圧されていたので、当然の判断だろう。結局、三月二十九日、新平は県内安芸郡東洋町で捕縛されてしまったのである。  新平が捕まったことを知ると、大久保利通はその日記に「雀躍ニ耐ヘズ」と喜んでいる。乱の首領をなかなか捕縛されず焦っていたので、心底安堵したことがわかる。
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切り落とされた新平の首は獄門台に晒された
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歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。 1965年生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業、早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も。近著に『早わかり日本史』(日本実業出版社)、『逆転した日本史』、『逆転した江戸史』、『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社)、『知ってる?偉人たちのこんな名言』シリーズ(ミネルヴァ書房)など多数。初の小説『窮鼠の一矢』(新泉社)を2017年に上梓
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