恋愛・結婚

止まらぬ涙、二人の秘密基地だったのに 『五十年目の両想い』/新堂冬樹

【これまでのあらすじ】 彼氏がいるとはいえ、真理亜への思いは変わらない豊。そんなある日、突然クラスメイトの陽子から告白される。当然、断る理由はただひとつ。人生で初めて自分の本心を吐露する豊の胸は、言葉にできない感情が渦巻いていた。 【主な登場人物】 豊(ゆたか)
五十五歳。児童文学出版社「童夢ファクトリー」社長。穏やかで争いを好まない性格。五十年前に抱いた初恋を、いまも胸の奥にしまい続けている。 真理亜(まりあ)
豊の幼なじみ。明るく自由奔放で、いつも豊を振り回してきた”太陽のような少女”。豊にとって、決して忘れられない存在。 白川美沙(しらかわ・みさ)
「童夢ファクトリー」編集長。豊の元部下で、令和世代らしい感性を持つ仕事のパートナー。歯に衣着せぬ物言いで豊を翻弄するが、その姿はどこか真理亜を思い出させる。 五十年目の両想い   

3-3 体育倉庫

     下校時間——豊は体育館近くの木製の長椅子に座っていた。  一年生までは毎日のように、真理亜とこの場所で待ち合わせて一緒に帰っていた。  豊は放送部、真理亜はテニス部に入っていた。  放送部のほうがテニス部より早く終わるので、豊はいつも長椅子でウォークマンを聴きながら真理亜を待った。  豊と真理亜は家も近所なので、小学校、中学校と、登下校はいつも一緒だった。  二年生になってから、二人のルーティンに変化が起こった。  バレンタインデーに真理亜が手作りチョコレートを渡した佐野と交際が始まってからは、豊との別行動が多くなった。  だが、気紛れに真理亜が待ち合わせ場所にくることがあるので、豊は変わらず毎日長椅子で待っていた。  週に一回、運が良ければ二回、真理亜は現れる。   そのためだけに、豊は待っている。  運が悪ければ、一週間現れないこともある。  それでも、豊は待っている。  ウォークマンのヘッドフォンから、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が流れてきた。  哀切なメロディが、いまの豊の気分に合っていた。  ホテルカリフォルニア。出迎えてくれた魅惑的な女性を、〈彼女の心はティファニーの宝石のようで、メルセデス・ベンツのような曲線ボディ。彼女にはたくさんのかわいく素敵な男の子がいるけど、彼らを友達と呼んでいる。彼女たちは中庭で踊ってる、甘い夏の汗。思い出すために踊る人もいれば、忘れるために踊る人もいる〉と表現している歌詞が好きだ。  なんとなく、この曲の舞台……「ホテルカリフォルニア」の訪問者が自分で、迎えてくれた魅惑的で奔放な女性が真理亜に思えた。  そして、〈あなたはいつでもチェックアウトできる。だが、決してここを去ることはできない〉というラストの歌詞に自分の心境を重ねていた。  二年になって豊が朝の時間に流す曲の決定権を持てるようになってからは、六、七十年代の洋楽が多くなっていた。  邦楽が嫌いなわけではなく、その年代の洋楽の歌詞の奥行きの深さや哀切な世界観が好きだった。 「あ……」  豊は体育館に向かう真理亜の姿を認めてヘッドフォンを外した。 「真理亜ちゃ……」  豊は声を飲み込んだ。  真理亜の少しあとから、佐野が追いかけてきた。  二人はじゃれ合いながら体育館に入った。  豊は気を落ち着かせるように、ふたたびヘッドフォンをつけた。  いつもはリラックスさせてくれるはずの洋楽も、早鐘を打つ鼓動を静めることができなかった。  リラックスするどころか、動揺で曲のメロディがまったく頭に入ってこなくなった。  ボズ・スキャッグス「二人だけ」、ミッシェル・ポルナレフ「愛の休日」、ダイアナ・ロス「マホガニーのテーマ」、ベイ・シティ・ローラーズ「サタデー・ナイト」、カーペンターズ「スーパースター」、ジョン・レノン「イマジン」……何曲が流れたときだろう、真理亜と佐野が体育館から出てきた。  豊は慌てて長椅子から立ち上がり、背凭れの陰に身を屈めて隠れた。  入るときと違い、二人は無言で正門のほうに歩いて行った。  二人の背中が視界から消えるのを待ち、豊は無意識に体育館に向かって足を踏み出した。  無人の体育館に入り、倉庫に向かった。  小学校の頃に、真理亜とは体育館の倉庫を秘密基地として使用していたのを思い出したのだった。    なにをしようとしている?    心の声を無視して、豊は倉庫の引き戸に手をかけた。    やめるんだ。    ふたたび、心の声がした。    豊は恐る恐る、引き戸を開けた。  鼻孔に忍び込む生臭い空気が、豊を不安にさせた。  引き返せ! 体育館を出るんだ!  心の叫びとは裏腹に、豊は倉庫に足を踏み入れた。  跳び箱、バスケットボールとバレーボールの入った籠、折り畳まれた体育マット……。  豊は視線を巡らせた。    なにもあるわけないだろう?  豊は自分に言い聞かせ、倉庫を出ようとした。  床に落ちている長い髪に、豊は足を止めた。  不意に嫌な予感がした……いや、嫌な予感に拍車がかかった。  豊は踵を返し、体育マットの前に立った。  三段重ねになっていたが、明らかに一番上のマットだけ不自然にズレていた。  無意識に体育マットに手を伸ばしていた。  なにをする気なんだ?     心の声を無視して、豊は体育マットを床に下ろして広げた。  長い髪が数本、マットの端にへばりついていた。  鼓動が高鳴った。  豊は体育マットに視線を巡らせた。  巡らせていた視線を、中央で止めた。  十円玉硬貨くらいの大きさの赤い染みに、豊の視線は釘づけになった。  両足が震えた。  豊は腰を屈め、赤い染みを凝視した。 「血……」  豊は掠れた声で呟いていた。  その血が、怪我してついた血でないことは豊にもわかった。  その血が、なんの血であるかも……。  豊は、ふらふらと立ち上がった。  ヘッドフォンから流れてくるエルトン・ジョンの「悲しみのバラード」の哀切なメロディが、豊の涙腺を震わせた。  豊は真綿の上を歩いているような不安定な足取りで倉庫を出た。  気づいたら、走っていた。  どこをどう走ったかわからなかった。  いつの間にか、正門を出ていた。  豊は正門から十数メートル離れたパン屋の前で立ち止まり、両膝に手をつき荒い息を吐いた。  下校時に真理亜とよく立ち寄るパン屋だった。  真理亜はこの店で必ず、クリーム&ジャムパンを買っていた。  スニーカーの爪先に、滴が落ちて弾けた。  まだ、心臓が音を立てて鳴り膝が震えていた。    そうだと決まったわけじゃないだろう?  声がした。  じゃあ、あの髪の毛はなに!? あの血はなに!?  声に訊ねた。  髪の毛が真理亜ちゃんのものだと、どうしてわかる?  血が真理亜ちゃんのものだと、どうしてわかる? 声がした。  でも、真理亜ちゃんが佐野君と二人で倉庫に入ったところを見たんだ。  声に言った。  だから? 話をしていただけかもしれないだろう?  そんなふうに疑うのは、真理亜ちゃんに失礼じゃないのか? 声が豊の胸に突き刺さった。    たしかに、その通りだ。  長い髪の毛の女子なんていくらでもいる。  体育マットの赤い染みが、たとえ血であったとしても誰かの擦り傷の血かもしれない。  体育の授業は激しく体を動かし、マットは硬くザラザラしているので、膝や肘を擦り剥いたら血などいくらでも付着する。  なのに自分は真理亜を疑い……。  豊は激しい罪悪感に苛まれた。 小説家、実業家、映画監督。1998年に『血塗られた神話』で第7回メフィスト賞を受賞し、デビュー。“黒新堂”と呼ばれる暗黒小説から“白新堂”と呼ばれる純愛小説まで幅広い作風が特徴。『無間地獄』『カリスマ』『悪の華』『忘れ雪』『虹の橋からきた犬』『そのヘビ、ただのヒモかもよ!』『シン人間失格』など、著書多数。芸能プロダクションも経営し、その活動は多岐にわたる。