入院で知るスマホの威力[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第19話)]

「隔世の感あり」

「隔世の感あり」

世間の動きはスマホで

   入院中にスマホの威力を再確認した。朝、起きるとブックマークしてある新聞各紙のサイトを覗く。「これから先は有料」という前までで、世の中の動きは大体わかる。  ときどき弟が見舞いがてら新聞を買ってきてくれるが、報道内容はスマホですでに知っている。ただ、スマホには古いニュースが混在しているから要注意だ。  調べ物も同じスマホでグーグルの検索機能を駆使して、目的を達する。「数独」だって楽しめる。ただ、バッテリーがすぐなくなってしまうのでイライラする。  そこは連れ合いに充電器を持ってきてもらってストレスはなくなった。動画は画面が小さいので迫力に欠けるが、子供に言わせるとユーチューブなどはそれで充分だそうだ。

ああ、究極のメディア・テレビ

   テレビ・新聞の衰退が伝えられて久しい。  メディアの栄枯盛衰はテクノロジーの進展が根底にある。しかも最近はその変化が激しい。  グーテンベルグにより、活版印刷が発明された15世紀半ば以来、20世紀半ばまで新聞はじめ活字メディアが君臨した。  しかし20世紀後半になるとテレビがそれに取って替わった。21世紀に入り、ネットの普及により、パソコンが一時台頭したが、いまではスマホに王座を譲ろうとしている。  ボクはテレビの勃興期・黄金期をテレビ局で過ごした。テレビが強かったのは最先端のテクノロジーでありながら、誰にでも使いこなせる手軽さと身軽さにあった。  そのころテレビは「究極のメディア」と言われた。今では究極でもなんでもない。スマホに追われて汲々としている。  コンテンツに関していえば、「前世代のメディアは次世代メディアのコンテンツ」という原則が生きている。確かに新聞や映画はテレビのコンテンツだった。  今はテレビがスマホやパソコンのコンテンツになりかかっている。オンデマンド配信とはそういうことのようだ。  オールドメディアにとってそれも生きる道の一つだが、基本的には新しいメディアそのものを取り込むことが重要で、それが自己革新につながる。「脱皮しない蛇は死ぬ」という譬えもある。

スマホは生活の一部

   スマホの威力はそれだけではない。買い物だって、娑婆にいるときと同じように、簡単だ。  ボクはアマゾンのヘビーユーザーで、数年前からプライム会員になっている。これまでプライム会員になるには会費を払わなければならなかったが、特定のアマゾンカードに参加するとその必要はなくなる。  その魅力は多くの場合、配送料が無料になるという点だ。本を買う機会の多いボクにとっては魅了的なサービスである。  連れ合いはそのことをよく知っていて、見舞いに来てはコメがなくなった、ワインがなくなった、なにがなくなったといっては「頼んで」という。  ボクはスマホをタッチするだけで、オーダーする。そこは慣れたものである。連れ合いとしては重いものを持ち運ばなくていいし、支払いはボクの口座から引き落とされる。  願ったりかなったりというところだろう。病人としても頼られることは悪い気がしないし、気分転換にもなる。  寝ながらにして情報収集もできれば、図書館通いにも似た調査もできる。動画も鑑賞できる、その上買い物まで……。さらにSNSを使えば友達とのお付き合いもなに不自由ない。情報発信だって雑作ない。  スマホのもつ革新力をつくづく感じた入院生活だった。地震情報などを除きテレビは視ないでも済んでしまった。 テレビは究極のメディアではなくなった。今やアプリの一つかもしれない。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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