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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(13)

 ラスヴェガスのストリップは敷居が高すぎた。ゆえに下町をぶらつき、オフ・ストリップの小博奕屋で、主にルーレットとBJ(ブラックジャック)を攻めた。

 慣れないことはやっちゃいけない。

 1ドル・2ドルのテーブル・ミニマムでも、どんどんと持ち金が削られていった。

 1週間で、2500ドルほど負ける。

 股間に尻尾を巻き込み、サンフランシスコに舞い戻ることにした。

 敗けを受け入れる。

 敗北を受容できるか、できないか。

 賭博では、この点がきわめて重要だ。バカには、これができない。

 傷がまだ浅いうちに、負けを認めて撤退するのである。

 ひと息いれて、サンフランシスコから南下し、メキシコとの国境およびメキシコ湾沿いを東にニューオリンズまでヒッチハイクした。

 髪も髭も伸び放題のむさい東洋人を、よく多くのドライヴァーたちが拾ってくれたものだ、と他人事のように感心する。

 と同時に、いまから考えると、とても無謀な行為だった。

 バックパック(当時は、リュックサックと呼ばれていた)には、1万USD前後の現金が入っていたのである。

 マディグラの祭りで、西海岸から来ていた18歳の少女と知り合った。

 金色と亜麻色の混じった髪の、ドイツ系の名をもつ可愛らしい少女だった。

 二人で3週間ほど中北部の都市を目指し旅した。

 セックス・ドラッグス・ロックンロールの時代である。

 ここいらへんも書きたいことがあるのだが、本筋から外れてしまうので省略する。

 少女は、そろそろ復学する、と言った。

 翌年の夏休みにはヨーロッパのどこかで再会しよう、と約束して、吹雪のシカゴで西と東に別れた。

 1972年の3月だったが、わたしはニューヨークからアムステルダムに向かった。

 ロンドンを起点にして、それから1年半ほどを主に南部ヨーロッパや北アフリカ各地で暮らした。

 セックス・ドラッグス・ロックンロールの日々は続く。

 あんな楽しいことはないのだから(笑)。

 1973年の秋に、アジアに渡った。

 いろいろと面白い博奕(ばくち)を経験した。

 カブトムシの勝負とか、カエルの3メートル競走とか。

 チャールズ・ラムが言ったように、「人間とは賭けをする動物」である、と確信できたアジアの旅だった。

 バンコックでは、非合法のカジノにパトカーで送迎されたこともあったっけ(笑)。

 なんでも警察の方面本部長が代々引き継ぎ経営する地下カジノだそうだ。

 手持ちのカネも底をつき、いったん東京に戻った。

 日本における諸事雑事を整理して、また国外に出るつもりだった。

 その計画は予定通り実行した。

 1975年5月、それなりのカネを手にして、わたしは羽田空港からロンドンに向けて、旅立っている。

 ただし予定外だったのは、このときわたしには妻がいたことだった。彼女とは、なんと内幸町の帝国ホテルで、知り合った(笑)。

 ここいらへんも、いろいろと書きたいことはあるのだが、やはり本筋から外れてしまうので、省略しよう。詳細が知りたければ、『無境界家族(ファミリー)』(集英社文庫)のご高覧を願う。(つづく)

※次回の更新は10/1(木)予定です。

2020.09.24 | 

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(12)

 でも、この頃に読みそして深く傾(かぶ)いていた、Jerry Rubinの“DO IT!”という本に強く影響を受けた「こころざし」だったのは認めなければなるまい。

 ――高度資本制社会の中で、遊ぶことが仕事か、それとも仕事が遊びか。この二択以外に正気は保てない。

 痺れるほどのアフォリズムだった。

 いまとなっては、Jerry Rubinを知る人もすくないはずであろう。

 Rubinは、1960年代末から70年代初頭にかけて、‘Yippies’という政治運動の活動家だった。

 文化ないしは反文化の‘Hippies’のムーヴメントではない。

 そう書いても、その違いをわかる日本の人は、当時もいまもほとんど居ないのだろうが。

 DO IT!

 とにかく、やっちゃる。

 どうせ賭場(どば)と競輪場で拾ってきた、他人さまのカネだった(笑)。

 それでわたしは、サンフランシスコ行きの航空券を購入したのである。

 失敗しても、いいのだ。

 いやむしろ、失敗上等、である。

 若いということは、やり直しができる、ということでもあった。

 そこいらへんがわからずに、ずぶずぶに保守化してしまう若い人たちが、現在の日本には多いそうだ。

 現状は、ひどい。しかしこれ以上落ちるのが心配だから、現状維持を望む。

 バッカじゃなかろか。

 ロッククライミングで失笑される「四点確保」である。

 手足四点を使って、現在地の岩にへばりついている。

 確かにその時点ではもっとも安全な方法なのかもしれないが、これではいつまで経っても目的地に到達することはない。

 そのうちに疲れて、ずるずると崩落する。

 いつか、必ず、絶対に。

 ――リスクを取らないのは、最大のリスクである。

 若かった頃も、老い先短いいまも、変わらぬわたしの信条だ。

 もっとも、いつもいつもリスクばかり取っていたら、そのうちに間違いなくパンクしてしまうのだろう。

 だから、自力で考える。

 迷い悩み調査し、そして熟考してから、あとは目を瞑って跳ぶ。

 ――見る前に跳べ。

 ではないのである。

 よく見てから、よく考えてから、最後はえいやぁ、とそれが断末魔になりかねない叫び声を上げながら跳ぶのだ。

 わたしは、そうしてきた。

 そうすることにより、これまでの人生をとても楽しんできた。

 1971年秋にたどり着いたサンフランシスコは、衝撃だった。

 小田実の『何でも見てやろう』の米西海岸での実践である。残念ながら、小田とわたしでは、教養と理解力に差がありすぎて、その足元にも及ばなかったのは認めよう。

「経験の自覚化」という作業を怠っては生き残れない賭博専業者は、けっこう読書家でもあった。この習慣は、じつは現在まで継続していて、どんなに疲れていようとも、わたしは就寝前の1時間を必ず読書に宛てている。

 サンフランシスコの衝撃は、わたしの賭博遍歴とは無関係なので、省略する。

 1か月ほどをサンフランシスコとバークレイでぶらついてから、グレイハウンドのバスで、ラスヴェガスに向かった。(つづく)

⇒続きはこちら 番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(13)

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(11)

 だるま返し(=だるま転がし)戦法の原則にしたがい、「魔の9レース」(台に載った予想屋のおっさんがそう叫んでいた)には13万円前後を一点で突っ込んだ。

 ここいらへんから、わたしの記憶は曖昧(あいまい)となってしまう。

 ノルアドレナリンもドーパミンもぴゅっぴゅっと出まくって、脳内報酬回路は快楽物質で洪水状態だった。

 もう、なにがなんだかわからない。

 わたしの存在自体が、怪しかった。

 ソーセージの肉状となった己(おのれ)が、ただただ快感に痺れている。

 神が憑依(ひょうい)したのか、はたまた降臨してわたしを導くのか。

 9R的中。

 正直に書けば、第9レースの配当金をすべて第10レースに突っ込んだわけではなかった。

 ビビッて、一部を中抜きしたのである。

 したがって、正しい意味では、「だるま返し」ではなかった。情けない。

 10R大的中。

 最終レース後の払い戻しの穴場で、周りのおっさんたちが騒いでいたのは、おぼろに覚えている。

 穴場から差し出された札束を、よれよれの上着とズボンのポケットにねじ込むと、わたしは競輪場出口に向かい走った。

 当時の払い戻しは、どんなに高額であろうが、すべて現金で穴場の窓口からだった。

 汗まみれになりながら、膨らんだポケットを掌で押さえ、わたしは競輪場の出口を目指して走った。

 強奪を恐れていたのだろう、と思う。

 競輪場や競艇場では、年に何回か「暴動」が起こる時代だった。

 どうやって帰ったかも忘れた。

 息を切らせて戻った花園町のアパートでは、はち切れんばかりに膨らんだポケットをすべてぶちまけた。六畳の畳の上に万札が300枚弱散らばった。

 1万円の元手からである。

 ビビッて中抜きなどしていなければ、えらいことになった。

 ギャンブルでは、奇蹟が起こる。

 そしてそれが、我が身に起こってしまった。

 しかも公営競走賭博という不毛・不得手な領域で。

 だからギャンブルは、怖い、恐ろしい。それゆえたとえようもなく楽しくて、厄介なのである。

 熱帯夜だったのにもかかわらず、その夜わたしは震えながらまどろんだ、と記憶する。大勝したのだが、というか大勝したゆえに、熟睡なんてできゃしない。

 朝日が昇ると、枕の下の札束をもう一度数えなおした。間違いない。1万円札が300枚近くあった。

 翌日は決勝戦。

 でもわたしは水道橋(後楽園競輪場があった場所)に行かなかった。

 その代わりに、靖国通りの厚生年金会館に面した小さな郵便局に向かったのである(笑)。

 いまと異なり、二十歳前後のガキが、郵便局の窓口に300枚弱の1万円紙幣をぽんと出しても、なにも訊かれずそのまま通帳に記載してくれた。

 現在だと、わずか100万円程度の現金の送入金でも、金融機関の職員はいろいろと質問してくる。

 わたしは、

 ――ギャンブル用のおカネ。なんか文句あるの?

 と答えることにしているのだが。

 話を戻す。

 これでユービン貯金の通帳に書き込まれた金額が、アトサキ賭場での勝ち金を含めて、400万円を超えた。

 当時、大企業に就職した新卒の年収の、軽く10倍以上である。

 よし、やったる。

 なにを、やったるのか?

 自分でもよくわからなかった。(つづく)

⇒続きはこちら 番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(12)

番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(10)

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番外編6 闘った奴らの肖像:第1章 第1部 待てよ潤太郎(9)

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