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PROFILE

森巣博
森巣博
1948年日本生まれ。雑誌編集者を経て、70年代よりロンドンのカジノでゲーム賭博を生業とする。自称「兼業作家」。『無境界の人』『越境者たち』『非国民』『二度と戻らぬ』『賭けるゆえに我あり』など、著書多数。

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(7)

 優子にとっても自分のオフィスであるのだから、「いいですか?」はなかろう。

 もっとも、傍から見る良平の状態がそれほど尋常ではなかったのか。

 優子はジャッキーと二人で行った北海道の温泉巡りから、一週間ほど前に帰ってきた。しかし、戻っても仕事はない。なにしろ仕事場が強制的に閉鎖されていた。

 強制が解けても、それからさらなる30日間の営業自粛。

 ――給料は支払うから、そのまま休暇をつづけたら。

 と良平は優子に勧めたのだが、

 ――いったんマカオを出ると、もう戻れなくなってしまうかもしれません。

 と優子は応えた。

 この優子の予想は、的中する。

 のちにマカオ政府は、出入境制限令を出した。

 中華人民共和国澳門特別行政区は、半島部と島嶼部を合わせても30平方キロに満たない極めて小さなエリアだ。

 そこに超高級から庶民向けまでの、ありとあらゆるホテル・酒店・飯店やレストランが林立しているから広いと感じるだけで、域外からの入境がぴたりと止まれば、元の小さな半島・島嶼に戻ってしまう。

 春節後のカジノ閉鎖令でほぼ閉じられていた繁華街の商店や飲食店も、ぼつぼつ開きだしたのだが、ほんの数か月前まであったあの生き馬の眼を抜くごとき街のダイナミズムを、まったく失っていた。

 狭いアパートメントに閉じ込められているとするなら、若い人たちには欲求不満で爆発しそうになるのかもしれない。

「優子さんも飲む?」

 良平がヘネシーXOの瓶を持ち上げた。

「はい、わたしもいただきます」

 と素直に優子。

 コニャック・グラスを渡せば、優子はすぐに口をつけた。

「ちょっと、お話しづらいのですが、思い切って言います」

 と、唇をコニャックで濡らした優子。

 ああ、これは彼女の雇用にかかわる話だ、と良平は察する。

「ジャッキーくんが、独立します」

「大口の打ち手が死に絶えた、この時期にかね」

「ええ、危機のときにこそチャンスがある、と考える人なので」

「逆張りか」

 良平はつぶやいた。

「雪に囲まれた定山渓の露天風呂に浸かりながら、二人でいろいろな可能性を検証しました。ジャッキーくんが『天馬會』で抱える客だけで、充分に回せます。それにわたしのお客さんも加えれば……」

「それは、『三宝商会』の客のことなのだけれど」

「ええ、だから良平さんにスジだけは通しておこう、と思いました」

 しっかりした客を抱えるカジノのホストやジャンケットの職員が、転職する。

 それも激しく入れ替わる。

 よくあることだ。

 転職先だって、ほとんどの場合、そのホストや職員が欲しいのではなくて、そいつが抱える客が欲しいだけなのだから。

 そうではあっても、優子はこの稼業を始めて、まだ10か月ほどしか経っていなかった。

 それだけ優子は優秀な職員だった、ということなのかもしれない。

 いや、登録上優子は『三宝商会』の役員だ。

 いずれは去るのだろう。しかし、早すぎる。

 良平の正直な感想だった。(つづく)

※次回の更新は4/9(木)予定です

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(6)

 新型コロナ・ウイルスの影響で2月5日よりマカオのゲーミング・ハウスは、政府命令で閉鎖された。

 その営業停止命令は、20日午前0時で失効し、39あるカジノのうち29のハウスが営業を再開したのだが、開けたところでもテーブルはほとんど稼働していなかった。

 超大手のサンズのコタイ・セントラルと同様に、都関良平のオフィスがあるハウスも、さらに30日間の営業再開延期を申請し、それが澳門博彩監察協調局(DICJ)によって許可された。

 オープンしても、なにしろ客が来ない。

 MGMマカオの試算によれば、ハウスを1日閉鎖すると必要経費だけで約2000万HKD(3億円)の支出があるそうだが、営業再開しても客がいなければ、さらにその損失は膨らむ。

 だから閉めたままにしておくのである。

 マカオの地元大口客は、VIPフロアでも(たとえば『金御會』のような)特殊なフロアでバカラのカードを引く傾向が強い。したがって地元の大口客を握っているハウスだけは、営業再開したら、なんとか息がつけるくらいの収支はあった。

 一方、大陸を含み海外からの打ち手を主な客層としているハウスは、営業を再開しても仕方がない。経費が嵩んで、自らの首をさらに絞めるだけだった。

 ジャンケット事業者のほとんどは、2月20日から営業を細々と再開している。

 自分のホーム・グラウンドは閉鎖しているので、良平は勉強のため開いているハウスを回ってみた。

 ウィン・マカオにある廣東集團(Guangdong Group)と大衛集團(David Group)のジャンケット・ルームだけには、どこでどう手配したかは不明だが、客がけっこう入っていた。

 その他のハウスでは、ジャンケット大手でもほぼ壊滅状態である。

 良平はホテルに戻ると、オフィスの大窓から夜の海を眺めた。

 海峡を越せば、マカオ半島だ。

 ハウスは閉じていても、ネオンの輝きが夜の海峡に映えていた。

 コニャックの力で、まとまらない思考を無理矢理まとめようとする。

 良平の頭に、なぜか『三人吉三巴白波(さんにんきちさともえのしらなみ)』のお嬢吉三が湧きあがった。

 ――月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、冷てえ風も微酔(ほろよい)に心持ちよくうかうかと、浮かれ烏(うかれがらす)のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端(かわばた)で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手で粟(あわ)、思いがけなく手に入(い)る百両、ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹(よたか)は厄落し、豆沢山(まめだくさん)に一文の銭と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわえ。

 季節に溢れた名文句である。

 だから『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつかい)』は2回しか観たことがなかったのだが、良平は台詞を暗記してしまった。

 さて、春節も終わり、

 ――こいつぁ春から縁起がいいわえ。

 なのか?

 どうもこの年は、春から縁起が悪いことばかりが続くような予感がした。

 そして、ギャンブルという場では、いいほうの予感は当たらなくても、悪いほうのそれはほぼ間違いなく的中してしまうのである。

 なみなみと注いだコニャックを、良平は一気に嚥下した。

 熱い塊が、食道を通り抜け胃に落ちる。

 思わず、ぶるっと身震いした。

「いいですか?」

 オフィスのドアが開いて、優子が入ってきた。(つづく)

⇒続きはこちら 第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(7)

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(5)

 大陸からの観光客はたしかに激減したのだが、どういうわけか除夕はまだレストランもホテルも盛況だった。

 その夜は、半島側に脚を伸ばし、グランド・リスボア裏にある『老記海鮮麺粥店』で、良平は『王宝和』の紹興酒を一人でいただいた。

 あては、カニの内子と蝦餃。

 年代物の老酒は、胃粘膜にじんわりと染みわたる。

 この年はよかったのか、と老酒の30年ものを片手に、良平は回顧した。

 まあまあ、大きな損失も出さずに、よく闘ったのだろう、と良平は思う。

 優子という良きアシスタントも得た。

 そのうちに「新型肺炎」がマカオ経済を蹂躙するだろうことは、予測されていた。

 まさにそれゆえ、のちのマカオ政府は、春節明けにはカジノ・ハウスの15日間にも及ぶ全面閉鎖を決定したのである。

 地域経済を守るため、地域経済の根幹部を封鎖する。

 恐ろしい決断だった。

 しかしそれをやってしまうのが、マカオ政府である。

 シメのカエルのお粥は、良平の好物だ。

 大匙一杯の秦醬(タイチュウ)をかけ、良平は粥を啜った。

 大量の汗が噴き出す。

『天馬會』から『三宝商会』買収で提示された金額は、3000万HKD(4億5000万円)だった。ただしその提示金額には、『三宝商会』が有する不動産等の資産は含まれないはずである。インタンジブル、砕けて言えば「のれん代」が、その提示金額だ。

『三宝商事』は有限会社ゆえ、税務関係以外での決算報告義務はない。

 したがって、他社に資産内容の全体を把握されるおそれもなかった。

 中国共産党中央執行委員会指定の「黒悪勢力」排除通達が出て、ジャンケット事業者の市場価値は激減した。

 日本のそれとはどうあれ、大陸の「黒悪勢力」とは無縁だが、『三宝商会』でも、おそらくその市場価格は半値以下となってしまったのだろう。

 1000万HKD(1億5000万円)という捨て値で売ったとしても、じつは良平の手元には、『三宝商会』所有の海南島やコタイやコンロン地区の不動産が残った。

 あれはいったい、いくらぐらいになるものなのか?

 コロナ・ウイルスの影響で、マカオの不動産価格総崩れとなっても、5000万HKD(7億5000万円)を下ることは、まずあるまい。

 なにしろレンタル収入だけで、年300万HKD(4500万円)を上げてくれるのである。

 その他、『三宝商会』の細かい資産まで合わせれば、どう低く見積もっても、良平の手元には7000万HKDから8000万HKDが残るはずだ。日本円にすれば、10億円前後となった。強気に試算すれば、ゆうにその倍はある。

 博奕(ばくち)を打てば、すぐに消えてしまう金額かもしれないが、打たなければ、結構なものだった。

 15年強、いや東京の本店から香港に異動させられた時点から数えれば、20年間の労働の成果である。

 ひゅ~っ。

 老酒のグラスを握ったまま、都関良平は音にならない口笛を吹いた。

 さてそれをどう遣うか、だ。

 前年に良平は50歳となっていた。そろそろ先が見えてくる。

 時間は、あまり残されていなかった。

『王宝和』の30年ものを、良平は甕(かめ)からグラスに注いだ。ねっとりとした琥珀色の液体である。(つづく)

⇒続きはこちら 第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(6)

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(4)

 2020年の除夕(大晦日)は1月24日(金)だった。  中国大陸および「一国二制度」下の地域も、そこから10日間の春節休暇に入る。  除夕の夜には、『春节晚会』という、まあ『NHK紅白歌合戦』に似た番組が放映され、それ […]

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(3)

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第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(2)

 5類はさらに、12種に区分される。 1. 政治の安全、特に政権の安全と制度の安全を脅かす、政治領域に浸透する黒悪勢力 2. “基層政権(区・郷・鎮・村の人民代表大会と人民政府)”の権力を握る、“基層換届選挙(区・郷・鎮 […]

第6章第4部:振り向けば、ジャンケット(1)

 2019年は、マカオ・ジャンケット業界の凋落が誰の眼からも隠せなくなった年だった、と総括してもそれほど間違ってはいまい。  大手カジノ事業者の売り上げの7~8割を占めていたVIP部門が、劇的に縮小した。ほとんどの大手ハ […]

第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(29)

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第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(28)

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第6章第3部:振り向けば、ジャンケット(27)

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