カネで読み解くビジネスマンのための歴史講座「第42講 ・オスマン帝国のグローバル・リンケージ・システム①」

ハイパーインフレはなぜ起きた?バブルは繰り返すのか?戦争は儲かるのか?私たちが学生時代の時に歴史を学ぶ際、歴史をカネと結び付けて考えることはほとんどありませんでした。しかし、「世の中はカネで動く」という原理は今も昔も変わりません。歴史をカネという視点で捉え直す!著作家の宇山卓栄氏がわかりやすく、解説します。                

ヨーロッパとアジアを繋ぐ三つの玄関都市

 16世紀に全盛期を迎えるオスマン帝国は、近世のイスラム世界を統率した最強の国家でした。なぜ、オスマン帝国は他のイスラム勢力を圧倒して、強大化することができたのでしょうか、その原因に迫ります。  ヨーロッパからアジアへ到るルートの玄関口は主に三つありました。コンスタンティノープル、アンティオキア、アレクサンドリアです。  コンスタンティノープルを玄関口とするルートは黒海に入り、クリミア半島やアルメニア(カスピ海)から中央アジア・シルクロードへ接続します。  シリアのアンティオキア(現トルコ、ハタイ県アンタキヤ)を玄関口とするルートはアレッポを経由して、ユーフラテス川流域に入り、海路ではペルシア湾へ抜け、陸路ではイランからシルクロードへ接続します。エジプトのアレクサンドリアからは南方のカイロを経て、紅海・インド洋へと抜けます。  ヨーロッパとアジアを繋ぐ三つの玄関都市この三つの都市は交易上も軍事上も要衝の地であり、古代から争奪の的となっていました。  13世紀に覇権を握ったモンゴルはシルクロードを制しながらも、この三都市を征服できませんでした。ビザンツ帝国は首都コンスタンティノープルに鉄壁の城壁を築いていました。攻城戦の苦手なモンゴル勢力はビザンツ帝国に攻め入ることはありませんでした。  シルクロード経営で覇権を握るモンゴルにとって、紅海・インド洋ルートに物資が流れれば、収益にはなりません。モンゴルはこのルートを制圧し、物流を統制する必要がありました。  そこで、モンゴルのイル・ハン国は、アレクサンドリアとアンティオキアを有するエジプトのマムルーク朝に1260年、攻め込みます。しかし、当時のマムルーク朝は強大で、さすがのモンゴル軍も敗退しました。以後、シリア地域でイル・ハン国とマムルーク朝が対峙し続けます。

紅海・インド洋ルート

 13~14世紀、地中海東方で、モンゴル、ビザンツ帝国、マムルーク朝の三勢力が鼎立していました。この三勢力の緩衝地帯として半ば放置されていた地域がアナトリア半島でした。そして、このアナトリアを地盤に台頭するのが1299年に創始されたオスマン帝国です。  オスマン帝国はコンスタンティノープル対岸のブルサに本拠を置き、アナトリア西岸のエーゲ海やアナトリア北岸の黒海に進出し、港湾を整備し、ヴェネツィアやジェノヴァとも交易をおこないます。イスラム国家のオスマン帝国はヨーロッパにとって、イスラム商業圏の窓口となりました。  オスマン帝国はビザンツ帝国の衰退に乗じて、バルカン半島に進出し、1366年、アドリアノープルを占領し、エディルネと改称し、ここに本拠地を移します。  エディルネはコンスタンティノープルの背後に位置する戦略上の要衝でした。1453年、オスマン帝国はついにコンスタンティノープルを陥落させ、千年の歴史を誇るビザンツ帝国を滅ぼします。オスマン帝国はコンスタンティノープルをイスタンブルと改称し、首都としました。  ヴェネツィアやジェノヴァはオスマン帝国に脅威を感じながらも、自ら接近し、オスマン帝国のエーゲ海と黒海における支配権を認め、通商条約を結びました。ヴェネツィアはオスマン帝国に多額の貢納金を支払い、オスマン帝国と優先取引権を得ます。  オスマン帝国はプレヴェザの海戦など、何度かの軍事緊張を除き、ヴェネツィアやフランスをはじめとするヨーロッパと、深く商取引で結び付きました。 【宇山卓栄(うやま・たくえい)】 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。予備校の世界史講師出身。現在は著作家、個人投資家。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで活躍、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説することに定評がある。著書は『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)ほか。
世界史は99%、経済でつくられる

歴史を「カネ=富」の観点から捉えた、実践的な世界史の通史。

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