ストレスをマネージする[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第50話)]

臨海線東雲駅

「ボクの利用する臨海線はよく遅れるが、腹が立つことはなくなった」

自分にストレスをかける


 ボクは時々自分にストレスをかけることがある。そうしないとのんべんだらりと1日を過ごし、無為徒食の輩に成り下がる。

 自分のためにも家族のためにも社会のためにもいいことはなにもない。だからストレスフリーとかストレスレスはいい状態とは思っていない。

 かといって体調を崩してしまうようなストレスもいいとは思っていない。ストレスは万病のもとという指摘もわかる。

 その意味で、ストレスフルは避けたい。ストレスが突然死の要因になることもうなずける。

 若いころのボクはどちらかというとストレスにすぐ反応する方だった。
「○○はかくあるべし」と思ったらそれにこだわる。ある時電車が遅れて帰宅が遅くなったことがある。

 当時のボクの信条は「電車は遅れるべきでない」「遅れたらそれを取り返すべき」というもので、いつまでもチンタラ走る電車に腹を立てた。怒りの持っていきようがなく、帰宅して妻に当った。

 当然妻はボクが何故そんなことでイライラしているのかわからない。そのため言葉をかけることもできず、お互い無言の食事になってしまった。

 翌日、少し落ち着いて心の中では「悪いことをしたな」と思ったが、後の祭り。しばらく冷戦状態が続いた。

最大のストレスは配偶者の死


 その妻の死に関することである。

 アメリカの心理学者ホームスとレイが1960年代に「ライフイベントとストレス」に関し「社会的再適応評価尺度」というものを提唱した。

 ある出来事に適応するためにどの程度の時間を要するかを相対的に数値化したものだ。その基準は「配偶者の死」を最も過酷なものとし100としている。

 それに比べると、転勤や配転は36、借金は多寡によって17~31、軽い交通違反を11などとしている(『ストレスマネジメント入門』島悟・佐藤恵美著による)。

 いかにもアメリカらしい数値化だが、ボクの場合配偶者の死は100どころではなかった。妻は49才の若さで、逆縁で逝った。空前絶後のストレスであり、人生に絶望した。

 ボクはこのストレスを克服するのに数年を要した。家族、友人、仕事仲間、上司などがストレスのはけ口になってくれた。

 そのおかげで妻の死後4年経って、彼女と過ごした新婚の家のドアを開けることができた。

 それ以来、ボクはストレスに強くなった。あるいはストレスを感じなくなった。ちょっと嫌なことがあっても「それがどうした」と開き直りうるのである。

ストレスは悪いばかりではない


 ものの本によると、人間にはストレスを受けると「頑張って乗り越えようとするタイプ」と「我慢するタイプ」があるという。

 若いころのボクは頑張るタイプだった。ストレスを克服する努力を惜しまなかった。

 この性格は「冠動脈親和性パーソナリティ」といって、心疾患を患うことが多いという。心臓バイパス手術に至ったボクはいかにもそのタイプらしい。

 一方、「我慢するタイプ」は「ガン親和性」が特徴で、ガン罹患率が高いという。亡妻はガンで亡くなったが、電車の遅れなどで理不尽に立腹するぼくに我慢していたのだろうか。

 今のボクはストレスを受けても「頑張りもせず我慢もせず」である。しかし、これは一概に良いこととは思えない。

 人間にはそれなりの使命や責任もあるはずだ。開き直りや不感症ばかりではそうした使命や責任を放棄することになりかねない。

 だからボクは時々自分にストレスをかけるのである。

 こうして闘病記を書き続けているのも自分にかけたストレスがいい回転をしているからだと思う。その方法論とは「俺はこれをやるぞ」と周囲や社会に約束することである。

「闘病記を書きたいから協力してくれないか」と言ったところ、扶桑社と育鵬社の編集者が協力を約束してくれた。

 ボクには彼らへの責任が発生した。これを果たさなくてはならない義務感にかられる。

ストレスはマネージ次第で良貨にもなり、悪貨にもなる。

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。




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