日本国史【4】国家の最小単位として機能していた惣村

白川郷(岐阜県)

白川郷(岐阜県)

惣村とは何か

 すでに鎌倉時代の後半から百姓たちは惣村(そうそん)という自治的な地縁共同体を組織して、水資源の配分や水路・道路の修復、境界の争い、盗賊などからの自衛などを行っていました。他の村との紛争解決や盗賊に対する自衛などにも惣村があたりました。これは百姓たちが生活を円滑に行うために必要なものだったのです。  三内丸山遺跡から400から600人くらいの人たちが暮らしていたと考えられる村落の跡が見つかり、それが江戸時代の一つの村落の人口と同じであることを先に述べました。これは一つの惣村の単位でもありました。そのくらいの規模が自立した地域生活を送るにはふさわしかったのです。    日本は自然が近くにあります。水も、魚も、木の実もあります。特に栗があれば、米がなくても生きていけました。そういう生活を支えてくれる自然の存在が日本人に自信をもたせたのです。自然によって「お金がなくても生活はできる」という生活の基本を与えられたために、日本人は穏やかなのです。常に外から食べ物を略奪しなくては生きていけないということになると生活の不安が生まれますが、日本人にはそれがありませんでした。    日本人の生活上の安定感はここから生まれています。それも共同体があって初めて可能になるのです。その共同体が集落あるいは村落、そして惣村というものでした。  惣村の有力者の中には守護や国司らと主従関係を結んだり、軍役を担って武士となる地侍も現れました。惣村が最盛期を迎えたのは室町時代の中期といわれます。応仁の乱などの戦乱に対応するために、自治能力が高まったのです。  惣村の構成員は大きく乙名(おとな)と沙汰人と若衆に分けられます。乙名は惣村の中でも年齢・経験が上の長老たちから構成されました。いまは大人と書いて「おとな」と読みますが、大きい人とは長老を指したのです。この乙名が村の指導者となりました。  乙名は選挙で選ばれていました。これが日本の民主主義の一つの原点です。乙名は複数選ばれ、村落の代表として祭祀を執り行い、年貢や課役の徴収、用水の統制などの問題解決にあたりました。  沙汰人は、荘園領主や荘官(荘園管理者)を代理して、上からの命令や判決を現地で執行しました。つまり、外からの土地支配に対して惣村との間をとりもつ役目を果たしていました。そのため、荘園公領制が弱体化し惣村が発達すると惣村の指導者に横滑りする者もいました。また、沙汰人の地位は世襲制でした。  若衆は、警察・自衛・消防・普請・耕作など、惣村の実労働を担う人たちです。当初、惣村の構成員は乙名のみでしたが、時代とともに一般の百姓(地下人)が経済的に自立し、惣村の構成員に加わるようになりました。百姓というと農民のことだと思っている方も多いのですが、百の姓という言葉の通り、さまざまな職業の人たちを百姓と呼んでいました。  惣村の構成員が出席する会議を寄合といいました。寄合でさまざまな決定をしていくわけです。惣村の結束を固めるための惣掟という独自な規約もありました。惣掟に違反した者は惣村から追放されたり、財産を没収されたり、罰が与えられました。死刑にされる者もいたといいます。  惣村は連帯と平等で成り立っています。常に同じ環境の中で争いなく生活していくために、連帯と平等の意識は欠かせません。だから、それを破る者に対しては厳しい裁断が下ったのです。    時代が下ると惣村は荘園領主や地頭などと年貢を通じて結びつきました。惣村が年貢を領主や地頭に一括して納入する役目を請け負うようになったのです。これを地下請(じげうけ)といいました。地下請は、領主側の惣村に対する信頼と、惣村の領主側に対する責任によって成立していました。年貢というと搾り取られるとか徴収されるという印象が強いのですが、むしろ土地を開拓・管理し、貸与してくれている荘園領主や地頭に報酬を支払うという感覚だったようです。生産に必要な森・林・山などが利用できることに対して、土地所有者に感謝する意味も年貢にはあったわけです。  多くの歴史の本には、室町時代以降、団結した農民が年貢の軽減などを求めて荘園領主に集団で反抗するようになり、一揆がはじまったと書かれています。    惣村による土一揆は室町中期にあたる15世紀前半にはじまり、次第に多発するようになりました。戦乱の世を迎え、惣村の自治意識は高まっていました。しかし、一揆というものはまとまって何らかの要求をするときに結成されるものです。反抗運動というよりも、自分たちの惣村を守るために正当な要求を掲げて連帯し、団結したということです。一揆というと「筵旗(むしろばた)を立てて鍬(くわ)や鋤(すき)を持って」というイメージがつくられてきましたが、決して上からの抑圧に対して民衆が立ち上がって戦ったということではないのです。    桃山時代に豊臣秀吉が惣無事令という不思議な法令を出しました。これは大名間の私的な領主紛争を禁ずる法令ですが、同時に惣村を壊さないようにという意味合いをもっていました。惣村を守るために豊臣政権が最高処理機関として大名間の紛争の処理にあたるといっているのです。これに違反する大名には厳しい処分が下されました。    惣村は国家を細分化していった一つの単位であり原型です。家が集まって惣村が生まれ、その村が集まって藩をつくり最終的に国家になるわけです。日本の民主主義は村落形態の中の人々の生き方、考え方につながっていくのです。その意味で惣村は日本人の共同体の原型であり、それが日本人の精神的な連帯感、経済の協力性、そして社会の安定に結びついています。    そんな惣村が国の権力によって守られたところから日本の平和がつくられていったのです。豊臣政権は短命に終わりましたが、少なくとも地方の惣村の意義をよく理解していました。 (出典=田中英道・著『日本国史』育鵬社) 田中英道(たなか・ひでみち) 昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本美術全史』(講談社)、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『世界文化遺産から読み解く世界史』『日本の宗教 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』『日本国史――世界最古の国の新しい物語』『日本が世界で輝く時代』(いずれも育鵬社)などがある。
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