更新日:2017年05月27日 12:08
スポーツ

田中将大は今年も「ももクロ」を登場曲に…メジャーにふさわしいのだろうか?

ヤンキースファンの中では音楽も歴史の一部

 この“劇場”には、アメリカの野球が刻んできた歴史と文化がある。よって、そこで流れる音楽もその制約を受けるのが当然なのであって、そのような状況でももクロの曲をチョイスすることはあまりに唐突であり、選手とファンとのつながりを自ら断つような行為にも映る。  99年の昼下がり、旧ヤンキースタジアムでポール・サイモンが歌った「ミセス・ロビンソン」や、ジョー・ディマジオやミッキー・マントルの名前を出して酔っ払いがクダを巻くトム・ウェイツの「想い出に乾杯」。
 メタリカの「エンター・サンドマン」とともに登場してくる伝説のクローザー、マリアノ・リベラ。そして晩年のデレク・ジーターをより一層輝かせた、「エンパイア・ステイト・オブ・マインド」(ジェイZとアリシア・キーズ)。
 これらはヤンキースのファンが思い出話をするときに欠かすことのできない演出装置なのだ。残念ながら、この中にあってももクロの「何時だって挑戦者」が語り草になることなど、絶対にあり得ない。  その意味において、田中将大は不適切なのだ。彼がアイドルオタクなのがいけないのではない。しかしそのプライベートを、そして日本国内でしか通用しない芸能界的ななれ合いの関係を、異なる文化へ無自覚に持ち込んでいることが不作法だと言わねばならないのである。

今年は、マー君のために作った「何時だって挑戦者」

 確かにイチローだって打席に入る時に「天城越え」(石川さゆり)を流したし、田澤純一も日本語のレゲエソングでマウンドに上がった。だがそのチョイスには、少なくとも彼ら自身の思想や人生が反映されていた。それが彼らにとっての“劇”を真剣なものにしていたのだ。  田中将大とももいろクローバーZとの関係が同じぐらいに重大で真摯なものだとはとても思えない。ヤンキースの歴史やニューヨークの観客などおかまいなしに、4年連続でももクロを使わなければならない特別な理由など一体どこにあるというのか?  試合前に虚しく鳴り響く「何時だって挑戦者」。曲にノレずに無関心な観客に囲まれ、淡々と投球練習を繰り返す田中将大の姿。これはマウンド上の孤独ではなく、ベースボールからの孤絶と呼ぶべき光景なのだろう。 <TEXT/音楽批評・石黒隆之> 
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4
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