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故・坂井泉水と倉木麻衣の共演が怖かった…死者のホログラムライブ、海外では賛否も

 2月1日放送の『ミュージックステーション テレビ朝日開局60周年3時間SP』で、倉木麻衣(36)と、ZARDの故・坂井泉水(1967-2007)が「負けないで」を“共演”した。ハリウッドの最新技術によって、坂井泉水があたかも生き返ったかのように同じ画面上にあらわれたのである。

『ミュージックステーション』坂井泉水と倉木麻衣の共演

『ミュージックステーション』で故・坂井泉水(右)と倉木麻衣が共演(C)テレビ朝日

 驚くべきは、その違和感のなさだった。まるでヤスリでもかけたかのように、過去の映像から画質と音質の粗が消えていたからだ。倉木麻衣がすることといえば、坂井泉水の仕草に合わせて視線を交わし、ユニゾンで歌うぐらいのものだった。
 
 ネット上では、“うるっときた”とか“久しぶりにZARDを聞いて、やっぱりよかった”とか、大方ポジティブな感想で占められていた。だが、今後日本でこの技術が浸透し、今回のような“共演”が当たり前になったとしても、果たしてずっと感動することができるだろうか?

海外では“故人ライブ”がビジネスに


 というのも、すでに海外では死人が主役のコンサートツアーがビジネスになっているからだ。ホログラムのマイケル・ジャクソンが黄金の宮殿で踊り(2014年、ビルボードミュージックアワード)、マリア・カラスは世界各地でホログラム・ツアーを行った(2018年)。


 そして、そうしたショーが、かなりの違和感を与えている現実を押さえておくべきだろう。

 たとえば、「オー・プリティ・ウーマン」で知られるロイ・オービソン(1936-1988)。昨年4月にイギリスで行われたホログラムツアーに対する評価は、散々なものだった。医学的に消滅した仮の生命に対して、熱狂したふりをせざるを得ない観客の戸惑い。そして、ホログラムによって再生させられた音楽が、ライブとは本質的に異なるという指摘は見逃せない。

<美術館の展示だと考えれば、ホログラムによるパフォーマンスは素晴らしかっただろう。だが、ライブ会場においては、なんだか不気味だったのだ。>
(英紙『The Telegraph』電子版 2018年4月19日配信 筆者訳)


 この一文は重要だ。美術館とライブを対比させることで、たとえ技術によって強制的に蘇生されたとしても、それはむしろ死しか強調しないと言っているからだ。そして、現存する人間が、死を積極的に利用して行う商売のいびつさも、“不気味”と感じる理由なのだろう。

現代がいかに死ねない社会か


 さて、“死人に口なし”状態で、復活させられた坂井泉水は、もう一つ深刻な問題を投げかけてくれたと言えるだろう。それは、現代がいかに死ねない社会であるか、という実状だ。

 2014年に全米で大ベストセラーになった『死すべき定め』(著:アトゥール・ガワンデ 訳:原井宏明 みすず書房)に、こんな一節があったのを思い出す。

<現代のハイテク社会は、社会学者の言う「死にゆく者の役割」が臨終で果たす重要性を忘れている。死にゆく人は記憶の共有と知恵や形見の伝授、関係の堅固化、伝説の創造、神と共にある平安、残される人たちの平安を願う。>

 そうして、消滅し、忘れられることで、いま生きている人間の活動するスペースができるはずなのに、現代社会ではその区切りがだらしなく先延ばしにさせられている。ガワンデ氏は、技術によって死者の尊厳が軽んじられていると言っているのである。

 そう考えると、死後12年、坂井泉水から発せられた「負けないで」は、エールではなく、思想的な負債と理解すべきなのだろう。
<文/音楽批評・石黒隆之>





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