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殺人鬼が告白する“芸術としての殺人”とは…退席者続出の猟奇映画が公開

『ハウス・ジャック・ビルト』は芸術の反倫理性を肯定的に描き出した寓話である  世界中で流行している大小無数のテロリズムやヘイトクライム(憎悪犯罪)、多種多様なポップカルチャーの題材となっている猟奇殺人の数々――それがいわゆる「芸術」と称されるジャンルの一部であるとしたら?  6月14日から新宿バルト9ほかで公開される『ハウス・ジャック・ビルト』(監督:ラース・フォン・トリアー)は、そんな挑発的で反倫理的な問いを殺人鬼のパーソナリティを通じて描き出した怪作だ。カンヌ国際映画祭では、凄惨なシーンに耐えられず、途中退席する者が続出したという。

最大の見所は、殺人シーンよりも…

 1970年代の米ワシントン州、赤いワゴン車を走らせていたジャック(マット・ディロン)は、パンクした車の前で手を挙げる女性(ユマ・サーマン)と遭遇する。女性は、壊れたジャッキを見せながらジャックに助けを求め、近くの修理工場まで自分を乗せて行ってほしいとせがむ。  だが、彼女は助手席に座るや否や、ジャックの風貌を腐して「あなた、殺人鬼かも。そんなふうに見えるわ」などと悪態を並べ立てる。修理を終えた後も傲慢な態度は変わらず、ジャックのイライラは遂に限界に達する。決定的だったのは、「撤回するわ。あなたを殺人鬼と呼んだこと」と言って謝罪するかと思いきや、「あなたには(殺人は)とても無理。虫も殺せない腰抜けよ」と侮辱したことであった。  ジャックは急ブレーキをかけて車を止めると、壊れたジャッキで彼女の顔をメッタ打ちにする。  この最初の殺人以降、ジャックは自身の行為を芸術になぞらえて、憑かれたように凶行を積み重ねていく……。  本作の最大の見所は、身の毛のよだつ殺人シーンと言いたいところだが(実際R18+指定になっており、残酷描写もそれなりに多いが)、ほとんど無駄話とも思えるジャックの犯行に関する注釈と、それに合わせて挿入される名画や記録映像によって浮かび上がる「どうしようもない凡庸さ」だ。

背景には何もない、空っぽだ

 かつてコリン・ウィルソンは、1960年代を境に「無動機殺人」が増大したことを指摘したが、大衆メディアの発達で犯罪のスペクタクル(見世物)化も進行した。「暇をもてあました男たち」による「退屈の犯罪」――ウィルソンが名付けた言い方だが――は「豊かな社会」の宿痾(しゅくあ)のようなものだ。背景には実は何もない。空っぽである。  日本では、「人を殺してみたかった」として女性を殺害した17歳の少年による凶悪事件がそれに相当するだろう(2000年の豊川市主婦殺害事件)。そのため、「高邁な殺人哲学」なるものが開陳されるということはなく、どこからか借りてきたような出来合いの言葉しか出てこないのだ。  ブラックユーモアと言えばそれまでだが、このことがとても重要な意味を持つのである。
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ジャックの犯罪が意味するもの
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