高校サッカーがJユースを上回る可能性。青森山田の強さから探る
高校サッカーの歴史を振り返る
なぜ青森山田がここまで強くなり、一時代を築くに至ったのか。そこには、高校年代の環境の変化が大きく影響している。100回を数えた高校サッカー選手権の歴史を少し振り返る。 「高校サッカー」が冬の風物詩として根付いたのは、1976年度の第55回大会からだ。開催地が関西から首都圏に移り、決勝戦の会場となった国立競技場が超満員になり、注目イベントとして飛躍した年だ。当時の高校サッカー界は、静岡県と埼玉県の2強体制。どちらかが必ず決勝戦に進むという時代だった。その後、各地で熱血監督が2強体制を崩しにかかった。 その代表的な人物が、準決勝前日に76歳で逝去された長崎総合科学大学附属高校(長崎)の小嶺忠敏監督だ。小嶺監督は、長崎県の国見高校で冬の選手権を戦後最多タイの6度の優勝に導いた名将として知られる。中でも、2000年度~03年度の4年間はすべて決勝に進出して3度優勝。「国見時代」を印象付けた。大会初の2年連続得点王となった平山相太や、21年に現役を退いた元日本代表FW大久保嘉人をはじめ、多くの選手をプロの世界にも送り出した。 高校サッカー界をけん引した功績は大きく、今回の第100回大会では、8日の準決勝、10日の決勝で全選手が喪章をつけ、試合前には黙とうが捧げられた。90年代後半は、国見だけでなく、帝京高校(東京)、市立船橋高校(千葉)、鹿児島実業高校(鹿児島)、東福岡高校(福岡)と次々に全国レベルの強豪校が誕生。どのチームもハードな練習のエピソードに事を欠かず、複数の強豪校が埼玉県勢、静岡県勢としのぎを削る時代になった。
Jユースの台頭で群雄割拠の時代に
1979年生まれ。東京都出身。「スポーツナビ」編集記者を経て、2008年からフリーライターとなる。サッカーやバドミントンなど、スポーツ全般を取材。高校サッカーなどの育成年代、マイナーな競技や大会の取材も多い。
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