猪木さんのメッセージ「レスラーが客に媚びる試合をしたらプロレスは終わり」
プロレスこそ最強の格闘技ーー絶えず大風呂敷を広げ、世間を挑発してきた稀代のカリスマ・アントニオ猪木。マットを降りたあとも政治家、そして格闘技プロデューサーとしてその存在感を発揮してきたが、2020年に難病「心アミロイドーシス」に侵され、10月1日、心不全のため79歳で死去した。『俺のプロレスvol.4』では闘病中の猪木さんに独占取材を敢行。折しも、自らが設立した新日本プロレスが設立50周年を迎えるにあたり、どう感じているのか。哀悼の意を表して、そのインタビュー内容を公開する(インタビューは21年11月)。
――多くのファンが心配しています。最近の体調はいかがですか?
アントニオ猪木(以下、猪木) はい、自宅で静養に努めております。往診の先生たちにもよく看ていただいたおります。退院時より少しずつ体調は上向いてきました。
――プロレスラーは体調が悪くなると人前に出たがらない方が多いですが、猪木さんが病院での姿を公開されたのは真逆でした。公開に抵抗はなかったのでしょうか?
猪木 周りのスタッフたちからは、ああした姿を公開することに反対意見もありました。しかし私はプロレスラーですので、弱った姿を含めてすべてを晒し、復活していくアントニオ猪木の姿を見せたいという思いがあり、あえて公開を指示しました。それは間違いではなかったと今は感じております。
――2022年、新日本プロレスが旗揚げ50周年を迎えます。そのことについて、率直にどう思われますか?
猪木 自分は過去のことを振り返らないようにして生きてきましたので、そうか、もう50年か、という感じですね。
――50年前の旗揚げ当時は苦労が多かったと思います。一番苦労されたことは?
猪木 窓ガラスの割れた寒い体育館で試合をしまして、人も数百人で寂しい入りでした。旗揚げ当時はテレビのレギュラー放送もなかったし、今日集まったお客さんに素晴らしい試合を見せて、次回は1000人以上のお客さんが来てくれるように頑張ろうって、そうした一念で試合をしたのを覚えております。
――当時、一番助けになったこと、頼りになったものは何だったでしょうか?
猪木 やはりファンの応援は力になりましたね。だが逆に言うと、ファンというのは興味がなくなれば一瞬でいなくなるという怖さもあります。さっきのは体育館の話ではないですが、いい試合をして多くの人たちを無理やりにでもこちらを振り向かせようという気持ちがありました。
弱った姿を含めて全てを晒したい
50年前の新日本旗揚げ当時の苦労
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『俺のプロレスvol.4』 プロレス50年の総決算!あの時、何が起こっていたのか? |
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