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中東、冬季…“初”づくしの2022年W杯。では“初”開催がウルグアイになったワケは

ウルグアイが第1回W杯の開催国になったのはなぜ?

ブエノスアイレス サッカーがオリンピックで地位と名声を確立する一方で、複数のFIFAの総会が開かれながらも、すべての大陸から国の代表チームが参加した選手権を開催するという大きな目標は達成できずにいた。1906年にスイスでワールドカップを開催しようと試みた後、イギリス人のダニエル・ウールフォールは、「(自らがそれから何年にもわたって会長を務めることになる)FIFAは国際的な選手権を創設できるだけの十分に安定した基盤をまだ築いていない」と述べた。同時に、「登録されたすべてのチームが同じルールを守るという確約も必要だ」と強調した。  第1回ワールドカップを開催しようという機運は、フランス人のジュール・リメの後押しのおかげで、第一次世界大戦後に高まり始めた。1921年からFIFAの会長を務めたリメは、サッカーが「恒久的かつ真の平和という理想を強化する」ことができると信じていた。  多くの紆余曲折を経た後、1928年9月8日にチューリヒで、第1回の大会を1930年7月に実施することに決まった。翌1929年5月8日、バルセロナでの総会でスペイン、イタリア、スウェーデン、オランダ、ハンガリー、ウルグアイが開催地に立候補した。有力視されたのはウルグアイで、その理由として直近の2回のオリンピックで金メダルを獲得していたこと、財政が豊かだったこと(ウルグアイが各国の代表チームの旅費と宿泊費をすべて負担すると申し出た一方で、ヨーロッパ大陸の候補国は厳しい経済危機に陥っていたためにそこまで確約できなかった)があげられる。

ウルグアイの独立100周年の一環としても

 また、ウルグアイが南北アメリカ大陸のすべての国の支持を集めた一方で、ヨーロッパの方が加盟国の数では多かったものの、5つの候補地の間で票が割れたことも要因となった。それに加えて、大会がウルグアイの独立100周年の一環として実施されるという点も共感を集めた。当時の新聞によると、ウルグアイの代表者、エンリケ・ブエノの外交的な手腕——および、それを熱心に後押ししたアルゼンチンのアドリアン・ベッカル・バレラの力——が決め手になったという。  まず、スウェーデン、オランダ、ハンガリーの代表者たちから立候補の辞退を取りつけた。続いて、ウルグアイにはスペイン人とイタリア人の大きなコミュニティーがあり、代表チームを応援するはずだと主張して、この2か国を辞退させることにも成功した。こうして第1回ワールドカップの開催国という名誉を、各国の賛同を得てウルグアイが手にした。ブエノスアイレスの『ラ・ナシオン』紙に掲載された演説で、ブエノは「第1回の世界選手権の開催地としてモンテビデオを選んだ総会の決定は、アメリカ大陸各国の共通する心情を示すもので、アルゼンチンを筆頭に各国は南米サッカー連盟の提案を温かく、かつ熱狂的に支持してくれた。我々はすべての人々に大陸の団結という心強い例を示した」と断言した。こうしてワールドカップの歴史が動き出すことになった。
1969年ブエノスアイレス生まれのサッカー・ジャーナリスト。『サッカーはなぜ11人対11人で戦うのか?』をはじめとするサッカー史や各国代表チームのガイドブックの他、選手の評伝など多数の著書があり、30ヵ国以上で出版されている
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サッカーはなぜ11人対11人で戦うのか?

知られざるフットボールの歴史100項目

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