更新日:2025年07月01日 17:15
エンタメ

「おじさんのコスプレをしていたら、いつの間にか社会から中身までおじさんだと見なされるようになっていた」――小説『まだおじさんじゃない』【第一章・第一話】/鳥トマト

 いつの間に若者ではなくなったのだろう。39歳、年齢的にはおじさんである。でも「おじさん」と呼ばれることに抵抗感を覚えるのはなぜだろう――。出版社で漫画編集者として働く自称“ベテランの若者”の心の惑いを描く連載小説『まだおじさんじゃない』、ここに開幕。『東京最低最悪最高!』が話題の人気漫画家・鳥トマトが小説連載に初挑戦。

第一章(若林信二編)・第一話「ベテランの若者」

「若林と結婚したら、私も若林になっちゃうの、本当はすごく嫌だけど、若林のために我慢するね」   夫婦別姓賛成派だった元妻の囁きがずっと耳に残っている。今思えばなんて恩着せがましい女だったのだろう。  十年前に三十五年ローンを組んだおかげで、俺はこの高円寺駅徒歩十分のペンシルな一軒家を買えたのだ。寝室の窓を開けて三階から見える馬橋小学校のグラウンドを眺める。今は何時だろう。 「この窓から、将来自分の子供が遊んでるのとかが見えたら楽しそうだよね」  そんな会話を元妻としたのも、十年前だ。今思えばなんで俺はそんなことを言ったんだろう。そもそも、子供が欲しいなんて思ったこともないのに。他人の子供なんか可愛いと思ったことすらない。  半年付き合って、結婚して、たった二年でよそに男をつくって出ていった元妻も、同じような気持ちだったに違いない。三十になったから、そろそろ大人にならなくちゃ。他人の子供の笑い声も「可愛いね」って言えるようにならなくちゃ。俺も元妻も当時そういう感じの「大人コスプレ」をしてみたかっただけなのだ。そして二年間でコスプレにも飽きて、俺一人とこの家だけが残されたというわけ。  青界社に勤務していた元妻とは、漫画編集者の交流会で出会った。有幻社に勤めている俺と同じ歳、同じ職業、正社員同士で「私たち、なんだか気が合うね」などと言い合った。結論から言うと、気が合ったのは結婚直後の半年くらいだけだ。一人で家を買っておいて、本当によかった。女は光の速さで俺を裏切る。土地は裏切らない。  俺は服を着て、家を出て、トボトボと歩き始めた。人生って、いつもそうだ。一人で目的もなく、歩き続けるしかない。  いつの間にか、懐かしい池にいた。ここは結婚した直後、家を買うまでの間、一瞬だけ住んでいた有幻社の社宅裏の須藤公園。公園の中に小さな祠と、池がある。俺以外は誰もいない。  ざばあ。池の中から女が出てきた。 「あなたが落としたのは、この右手の金のフェミニストですか? それとも左手の銀のフェミニストですか?」  苔むした緑色の池から出てきた黒髪の女神が話しかけてくる。右手には元妻の手が、左手には今の彼女の手が握られている。元妻のほうが金なんだ。 「フェミニストは落としていません。俺が落としたのは、いつもは俺と同等の立場でいながら、自分に都合のいい時だけ、か弱い女のふりして泣いたりする、図太くて無神経な女だけですよ」  ボブカットのきつい目をした元妻が俺にカップ麺の食べかすを投げつけてくる。 「ほんと若林っていつまでも大人にならなかったよね」  痛い。なんだよ、自分だっていつまでも子供みたいだったくせに。 「いや、お前こそ、なんで結婚したのにずっと苗字呼びだったんだよ」 「若林がいつまでも子供だからじゃん。私と家に居るのにずっと漫画家とLINEばっかして。作家はお前みたいな編集なんかいなくても漫画描けんだよ!」  元妻が俺にくしゃくしゃに丸めた紙を投げつけてきた。開くとそれは署名・押印済みの離婚届だった。俺の字だ。そうだ。俺たち、もうとっくに離婚したのだ。 「では銀のフェミニストを」  黒髪の女神がもう一人の女を差し出す。 「待って」  銀のフェミニストこと今の彼女、歩がいつものように右手を前に出してそれを制した。長い髪が揺れる。整った顔が相変わらずきつい。 「結婚するのも、子供産むのもいいよ。じゃあ信二くんが育休取ってくれる?」  またこれだ。そもそも、子供が欲しいと言ってきたのはお前だろ。俺は、そんなに子供は欲しくないんだよ。 「いや、何回も言うけど、俺はまず、結婚だけ、しようって言ってるんだよ。産休とか育休とかのことまで今は考えられないって。俺にとっては作家と生み出す漫画が自分の子供みたいなもんなんだから。仕事も最近、副編になって忙しいし、正直これ以上生活が仕事を圧迫するようなら、子供はいらないの」  それを聞いた歩の大きな目にみるみるうちに涙が浮かんでいく。あーあ、と俺は思う。最初にこの、宝石みたいな涙が溜まっていく目を見た時は感動したものだ。女の涙って、綺麗だからずるい。成分は俺のと同じはずなのに。でも今やもう、それもすっかり見慣れて、格闘ゲームの体力ゲージがコンボを決められてなすすべもなく敗北に近づいていっているのを見守るような気分だ。はい、いっぱいになりました。涙がポロポロと溢れる。 「今時、産休も育休も取らないなんて、ありえないでしょ? なんでいつまでも、アップデートされないわけ?」  自分と同じ年齢の人間の脳がアプリみたいに簡単にアップデートできると思っているなんて、お前こそ頭おかしいんじゃないか? 男のことは自分に都合よく動く機械だとか思ってる?   でも、泣いている女に向かって正論を言うと、さらに怒られるのが目に見えているので、俺はもう何も言わない。 「私のことが好きじゃないんでしょ?」 「いや、好きだよ」 「じゃあ、嫌いじゃないって証明して」  嫌いじゃ「ない」ことを証明することは好意が「ある」ことを証明するより、はるかに難しい。そういうのを哲学命題で「悪魔の証明」っていうんだぞ、と俺は思うけれど黙っている。 「もう、いい。私、出ていくから」  彼女は池のど真ん中に立ち尽くす黒髪の女神の手を振り解き、公園の池をザバザバと横切ってそのままどこかに行ってしまった。池の真ん中に立ち尽くす女神が憐れみの目で俺を見ている。 「あなたが本当に落としてしまったものは、なんだったのでしょうか」  俺に聞かないでくれよ、と叫んだところで、俺は悪夢から目が覚めた。いつもの天井。いつもの丸くて白い電気。窓を開けて寝たから新緑の精子みたいなにおいがする。いつも通りの、高円寺の一軒家だった。  思い出した。歩は一週間前に家を出ていってしまって、この家にはもう俺一人しかいないのだ。これが現実。スマホを見る。月曜日の十時。そろそろ起きて打ち合わせに行かなくてはならない。  寝室の窓を開けて馬橋小学校を眺める。学校前の道を、ヨボヨボの男が元気な犬に引かれてヨロヨロと散歩していた。彼はもう「おじいさん」なんだろうか。それとも、まだ「おじさん」? 人間って、いつから「おじいさん」になるんだろう。腰が曲がったら? 定年退職したら? 孫ができたら?  じゃあ「おじさん」は?   大人になったら、自動的に「おじさん」になるんだと思っていた。三十九歳の俺は人前で自分から「いやあ、もう俺もすっかりおじさんですから」なんて自虐めいたことをよく言う。でもそれは、三十の時だって言えたし、なんなら子供相手なら二十の時でも言えた。「おじさん」は「おばさん」に比べれば、別に社会的に嫌な言葉じゃない。だから、言うのは簡単なのだ。  おじさんのコスプレをしていたら、いつの間にか社会から中身までおじさんだと見なされるようになっていた。でも、本当の俺は今だってまだ、ベテランの若者みたいな気分のままだ。  つまりこれは、今「おじさん」の中にいる本当の俺は、どこに居るんだっていう話。 まだおじさんじゃない/鳥トマト 若林信二…39歳、バツイチ。出版社・有幻社の青年漫画誌の編集部で働く編集者。自身が「おじさん」であるかどうかがわからず生きている
まだおじさんじゃない/鳥トマト

若林信二


漫画家でありながら、歌ったり踊ったり、また小説家としても活動する奇才。現在、『東京最低最悪最高!』『私たちには風呂がある!』を連載中。その他の著書に『アッコちゃんは世界一』『幻滅カメラ』などがある
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