「101歳の詩人」柴田トヨさんが遺した2つの詩
『くじけないで』(飛鳥新社刊)が160万部を超えるベストセラーとなった。
柴田さんには生前、ESSEの取材に応じて頂いている。当時99歳であったが、ヘルパーさんや訪問診療の医師、看護師に助けられながらひとり暮らしを続けていた。
「自分のことは自分でやりたいの。ゆっくりですが、朝起きて身の回りの片づけをし、朝食の準備をして食べて…。その日にヘルパーさんに頼む掃除や洗濯のリストや買い物メモづくりも自分でやっています。一日は案外頭を使うし、けっこう忙しいんですよ」身の回りのことは自分で済ませたい。90歳を過ぎてからベストセラー詩人となった柴田さんのバイタリティーが、当時の暮らしぶりからもうかがえる。
元々は日本舞踊が趣味だった柴田さんだが、詩を書くようになったのは一人息子のすすめだった。
「20年ほど前に腰を痛めて踊れなくなってしまったんです。ちょうどその頃主人の具合も悪くなり、2年間の介護の末、帰らぬ人となりました。寂しくなってしまいましてねえ、ひとり暮らしの母親がふさぎ込んでいる姿を見かねたのでしょう、せがれが詩を書いてみたらどうか、とすすめてくれたんです。『おっかさん、詩ならお金もかからないし、ぼけないですむよ』って(笑)」
じつは息子さん自身、若い頃から詩を好み、結婚後も文芸同人活動を続けていた。そんな目の肥えた息子さんは、柴田さんが初めて書いた作品を読んで、あまりの出来ばえに目を疑ったという。その作品を新聞に投稿したところ、見事入選。これが後のシンデレラストーリーの始まりだった。
「皆さんが喜んでくださる、そのことがうれしくてねえ。私の方こそ、励まされているんですよ。詩集を出せて本当に良かったと思います」ベストセラー作家になった心境を、穏やかな笑顔で語ってくれた柴田さん。そして、ESSEのためだけに2編の詩を書きおろしてくれたのだ。当時、取材にあたった記者は柴田さんの様子をこう語っている。
「穏やかでニコニコしたあばあちゃんでした。取材に同席してくださった息子さんのことを、終始とても愛しそうな目で見ていたのが印象的です。帰り際に笑顔で『また来てくださいね』と手を握ってくださって。小さな手はとても温かく、気持ちが和んだのが記憶に残っています。特集内でESSEのためだけに詩を書いて頂けたのは貴重な機会だったと思います」
当時の特集記事の最後は、柴田さん自身の言葉で締めくくられている。
「100年近くも生きてきたので、私ももうあんまり先は長くないと思うの。だから、これからは今まで以上に一日一日を大切にしなくては。なるべく長く、ぼけずに、自分のことはできる限り自分でやって、ちゃんと生きていきたいんです。詩集を作ってもらったので、あの世へのいいお土産もできました。あとは一日一日を丁寧に積み重ねていくだけ。本当におかげさまでねえ、ありがたいことだと思います」
生涯現役。101歳まで懸命に生きた柴田さんのご冥福をお祈りする。
最後にESSEのために書いてくれた詩を掲載する。
●思い出III
路地を曲がった
五軒長屋の
まんなかの家に
父母と連れあいと
一人息子の健一 それに私
五人で暮らしていたの
風呂もテレビもなく
棚の上のラジオから
「君の名は」を聞くのが
楽しみだった
卓袱台を囲んでの夕食
笑いが絶えない家庭
あれから 六十年
今は一人の生活
でも 私には
思い出がある
●倅に III
職も 転々とかわり
いい事がなく
宝クジを買っても
当たったことがない
そう 嘆くけれど
しっかり者の
連れあいにめぐまれ
当たったじゃないの
人生に
当たり外れなんて
ないのよ
気持次第で
青い空が見えてくる
風の声だって聞こえるわ
さあ 笑顔を見せて
※ESSE web「話題のひとネタ」より http://esse.fusosha.co.jp/hitoneta/
ベストセラー詩人、柴田トヨさんが1月20日、生まれ故郷の栃木県で亡くなった。101歳だった。柴田さんは90歳を過ぎてから詩作に目覚め、産経新聞「朝の詩」への投稿を開始。シンプルな優しい言葉で書かれた詩が読む人に希望を与えると話題を呼び、初の詩集
『くじけないで』 「人生いつだってこれから 朝はかならずやってくる」 |
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