古墳時代の史跡・森将軍塚古墳が面白い(1)――「信濃」ではなく、なぜ「科野」なのか

科野の里歴史公園にある森将軍塚古墳館のパンフレット

科野の里歴史公園の「科野」とは

 長野県北部の千曲(ちくま)市に、市が運営する「科野(しなの)の里(さと)歴史公園」があり、ここは古代史や古墳好きにはたまらない魅力にあふれている。  まず、小高い尾根の上には、昭和46年(1971)年に国指定史跡となった「森将軍塚古墳」がある。  次に、その将軍塚を発掘調査した際の竪穴式石室を実物大で精密に再現した模型などが展示されている千曲市の「森将軍塚古墳館」(開館は平成9年4月)も必見だ。  一方、平成6(1994)年に開館した「長野県立歴史館」もすぐ近くにある。この歴史館を建設する際に発掘調査が行われ、今から3500年ほど前の縄文時代後期から弥生時代古墳時代と続いた集落の遺跡であることが分かった。この遺跡は、地名から屋代(やしろ)清水遺跡と呼ばれている。  歴史公園内には、この遺跡から発掘された竪穴住居や、物置に使われたとみられる小屋、収穫物を貯蔵する高床倉庫などが復原された一画があり、「科野のムラ」という名称がつけられ、当時の人びとの生活の様子が分かる。  ちなみに、長野県の旧称である信濃(しなの)という表記を使わずに、なぜ科野という文字を使っているのだろうか。話は脇道に入るが、まず、ここから探ってみたい。

出雲から追われた建御名方神(たけみなかたのかみ)

 答えは古事記の国譲りの場面にある。  ……科野(しなのの)国の州羽(すは)の海に迫め到りて、殺さむとしたまひし時、建御名方神(たけみなかたのかみ)白ししく、 「恐(かしこ)し。我(あ)をな殺したまひそ。此の地(ところ)を除(お)きては、他処(あだしところ)に行かじ。亦我が父、大国主神の命(みこと)に違(たが)はじ。……此の葦原中国(あしはらのなかつくに)は天(あま)つ神の御子(みこ)の命の隨(まにま)に献(たてまつ)らむ」 とまをしき。(『古事記』岩波文庫、70ページ)  この場面を少し解説しよう。  天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者として、高天原(たかまがはら、たかあまはら、たかまのはら)から遣わされた建御雷神(たけみかづちのかみ)は、地上の支配者である大国主神(おおくにぬしのかみ)に支配権を譲るように要請する。しかし、その子、建御名方神は応じなかったため建御雷神と力比べとなったが、負けてしまった。  そして、上記の場面となる。(建御雷神が、逃げ去った建御名方神を追って)科野(信濃、現在の長野県)国の諏訪湖に追い詰め殺そうとした時、建御名方神は、 「恐れ多いことです。どうか私を殺さないで下さい。今後この地より他へは行かないことにします。また父・大国主神の命令に背くこともいたしません。この葦原中国は、天つ神御子の命ずるまま献上いたします」  と言って頭を下げた。(竹田恒泰著『現代語古事記』学研などから)  こうして建御名方神は、国土を譲り渡すことに同意してその地に鎮座し、諏訪大社の祭神となっている。(続く) (文責=育鵬社編集部M)
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