異能・異端の元財務官僚が日本を救う(4)――バブルという羹に懲りてデフレを長引かせた日銀の誤り
日本経済の一人負けと「失われた20年」の要因は
日本はバブル崩壊後、長らくデフレに悩まされ、経済成長率も他の先進国と比して著しく低く「一人負けの状態」が続き、また失業率も高く「失われた20年」とも呼ばれてきた。その要因は何であったか。 高橋洋一氏は、近刊『日本を救う最強の経済論』のサブタイトルを「バブル失政の検証と後遺症からの脱却」として、その要因をバブル失政とその後遺症と捉えている。 以下、近刊書での分析のポイントを箇条書きで記してみよう。 ①日本のバブル期は、一般的に1987(昭和62)年から1990(平成2)年までを言う。 この間の経済指標は 経済成長率(実質)が4~5%、失業率が2~2.7%、インフレ率が0.5~3.3%とまったく問題ないレベルであり、「失業する人も少ないし、給与も上がり、みんながハッピー」の「理想的な経済」であった(同書35~36ページ)。 ②一方、資産価格である株や土地の価格だけが異常に上昇した。バブルとは、「資産価格の上昇」と定義できる。株価は89年末がピーク、地価はタイムラグがあり91年頃がピークとなる。 ③インフレ率が上がらず、株や土地という資産価格だけが上がる場合は、金融政策で見ると何か別の理由があると考えられる。 ④その頃、証券会社は税制の抜け穴を利用した「財テク」の営業を行い、株価が異常に上昇していた。当時、大蔵省証券局に在籍していた高橋氏は、証券会社が損失補填する財テクを営業自粛(事実上の禁止措置)させる大蔵省証券局通達を89年12月26日に出した。これにより、その年の大納会で3万8915円となった株価は、1990年の終わりにかけて2万3000円くらいまでに下がった。 ⑤他方、1990年3月に大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」が出された。これは、不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑える措置だ(いわゆる総量規制)。これにより地価は、その後、下落した。 高橋氏はこのように分析した上で、次のように記す。 (上記の④と⑤により)バブルは沈静化していく。だが、一方で日本銀行が同じ時期に金融引き締めをしてしまったのだ。今から考えれば、これがバブル処理における最大の失敗だった。致命的な間違いを多くの方は知らないだろうが、この政策失敗でバブルの後遺症が大きくなったのだ。そもそもバブルの原因は金融緩和ではない。だから、バブルつぶしのために金融引き締めすることが正しかったはずもない。……資産バブルを生んだ原因は、法の不備を突いた営業特金や土地転がしなどによる資産売買の回転率の高さだったが、日銀は原因分析を間違え、利上げという策を実施してしまったのだ。(同書、47ページ) 日銀は物価の番人だが、物価に株や土地の資産価格は含まれていない。……本来、日銀は消費者物価指数のような一般物価を眺めながら対策を講じていればいいのだが、株価の値上がりが自分たちの金融緩和のせいだと思ってしまった。(同書、51ページ)単に税制の抜け穴によって起こった「資産価格の高騰」だったが
ここで公定歩合と日銀の金融引き締めの経緯を辿ってみよう。 公定歩合は、1980(昭和55)年8月に日銀が9%から8.25%に引き下げて以来、87年2月に3%から2.5%に引き下げるまで10回にわたり引き下げられた。これは、多分に大蔵省の要請(実態は指示に近い)によるものである。 しかし日銀は、バブル当時の1989年5月に公定歩合を2.5%から3.25%に引き上げ、同年10月も引き上げた。さらに、バブル退治の「平成の鬼平」と言われた三重野康氏が同年12月に日銀総裁となり、就任直後の12月に引き上げ、さらに90年3月にも引き上げた。バブルがほぼ沈静化した8月にも引き上げ、公定歩合は6%となった。 この経緯を踏まえ、高橋氏は次のように言う。 株や土地の値上がりに対しては、日銀ではなく大蔵省や国土庁(現・国土交通省)がまず対応すべきだろう。少なくとも、90年8月の利上げは不要だったと言わざるを得ないが、さらに大きな問題は91年7月に6%から5.5%に下げるまでに時間がかかったことだ。下げのタイミングが遅れると、その後の引き下げは後追いとなって景気が回復できない。このように大蔵省との対抗心から、バブル期に日銀は金融引き締めという間違った金融政策をした。かつては、大蔵省は金融緩和が好き、日銀は金融引き締めが好き、という本当にバカげた話になる。(同書、51ページ)(続く) (文責=育鵬社編集部M)
『日本を救う最強の経済論』 バブルの対策を誤り、その後の「失われた20年」を系統的に解き明かし、今後のわが国の成長戦略を描いた著者会心の書。 |
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