不測の事態を乗り越えた手術チーム[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第23話)]

心臓冠動脈略図

「心臓冠動脈のイラスト(ボストン・サイエンティフィック社のサイトより)」

予想を超える傷み具合


 手術には予期せぬ出来事がつきものである。開胸してみると狭窄してしまった血管は予想以上に長かったし、その壁にも傷があったらしい。

 チームに緊張感が走った。右冠動脈は右の内胸動脈を使ってバイパスはできていたが、左前下行枝の血流状態がよろしくなかった。

 儀武先生は決断した。「グラフトの長さが足りない。右足の静脈をもう少し採り、内胸動脈につなげ、バイパスをもっと先の方に延ばそう」

 こうして不測の事態を克服しつつ、手術は続いたが、結局左脚の静脈も採取された。体液抜きのドレーン(管)など4本が刺し込まれたあと、ステンレスワイヤー6本で裂かれた胸骨が閉じられて手術は終わった。

人工心肺のお世話にもなった


 手術中、ボクの心臓は動かされたままだったが、人工心肺のポンプも使っていた。人工心肺とは間断なく身体の隅々まで血を送るポンプと体内を回ってきた血に酸素を供給し血液を再生する機械である。

 つまり人工の心臓と肺である。冠動脈バイパス手術には、心臓を止めて人工心肺を使う方法と、心臓を動かしたままで人工心肺を使わない方法がある。

 天皇陛下のバイパス手術を担当した天野篤医師によると、陛下は左冠動脈回旋枝、左前下行枝の2か所に狭窄がおありになったとのことだが、人工心肺は使わなかったという。

 これをオフポンプ方式というが、1990年代以降普及してきた最新の術法で身体に対する影響が少ないという。

 ボクの場合は、左冠動脈回旋枝、左前下行枝だけでなく、右の冠動脈にも狭窄があった。

 心臓を止める手法(オンポンプ方式)は30年以上の歴史があり、それなりに確立した術法とのことで、安全性は高いが身体に与える負担が大きいし、血栓が飛ぶ可能性も高い。

 心臓も止めず、人工心肺も使うということで、儀武先生は安全性と体への影響の極小化、血栓の出現防止という相反する課題をクリアしたのだと思う。

 ところで心臓は細菌に弱いデリケートな臓器だ。だから細菌を寄せ付けないために最善の注意を払う。細菌の多いのは口腔内である。

 ボクも手術前、歯科に数回通い、虫歯の治療や口腔内の汚れ除去をする処置を受けた。ボクは歯には自信があった。親からもらった歯は全部残っている。

 若いころ、親知らずを右側だけ上下2本抜いたが、残り30本は全部現役で頑張っている。左の親知らずは抜くチャンスを失ったままだった。

合併症防止に万全の対策


 初め、何故歯の治療が必要なのかわからなかったが、口腔内を清潔にすることで、口から肺に至る人工呼吸器を通して黴菌が移る可能性を絶つ。

 それで、感染による心内膜炎(心臓の内側を覆う膜の炎症)や肺炎などの合併症を防ぐことができる。慈恵医大病院では特にこのことに留意しているという。おかげでそういう合併症を起こさずに済んだ。

 相当の輸血も受けたが、この処理も無事に済んだ。手術そのものに要した時間は8時間40分だった。ボクが麻酔から覚めるのはそれから相当後のことだ。

 ボクが手術室から出てきて集中治療室に移されたとき、そこには連れ合いと次弟がいたらしい。連れ合いは医者の娘のせいか冷静だったようだが、弟はボクを見てびっくりしたらしい。「兄貴は死んだのか」と思ったという。

 まだ麻酔が効いていて声をかけても反応がないのは当然だが、目を閉じた様や、ぐったりした様が死人のようだったという。

 血の気が失せて顔色は真っ白だし、体だってピクとも動かない。わずかに鼻のマスクだけが「生きているんだな」と感じる材料だったらしい。

 麻酔から覚めて最初に聞いた言葉はチームの医師の「手術は無事終わりました」という言葉だった。それははっきり覚えている。

 前後で連れ合いもボクに言葉をかけ、ボクはなにか答えたに違いないが、それは全く覚えていない。

 こうしてボクは儀武先生の鬼手仏心に救われたが、バイパスを作っただけで、狭窄が治ったわけではない。再び狭窄が起きないようにするのは本人次第である。

 柳田邦男著の『元気が出る患者学』によれば「医療とは、患者と医療者が出会う交差点で創る作品だ」という。うまい表現だと思うが、ボクは次のように言いたい。

「病気を治すのは医者の務め、病気が治るのは患者の努力だ」

協力:東京慈恵会医科大学附属病院

【境政郎(さかい・まさお)】
1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。





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