周囲の支えがあってこそ[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第31話)]
上司の励まし
1994年8月、全精力をかけて看病、介護した妻がガンの全身転移で逝ってしまった。この時ほど「呆然自失」という心境になった時はない。 そのころ、会社は上場問題を抱え、忙しいことが多かったが、ボクの事情を知っている上司や同僚たちは「奥さんを最優先にしろ」と言ってくれた。 妻が府中の病院に入院したときには、病院からの電話を受けて会議を抜け出すことも多かった。 退院後も自由の利かなくなった妻は何かにつけてボクを頼りにし、ボクもそれに応えたが、仕事仲間は最大限の理解と協力をしてくれた。 にもかかわらず、妻はまれに見る暑さの中で息を引き取った。覚悟はしていたものの、ボクは魂が雲散霧消した「抜け殻」のような状態になった。 忌中の期間も過ぎて出社したボクは妻の死を上司に報告した。漢文が好きだったボクはその時の心境を次のように表現した。 「将らず(おくらず) 逆えず(むかえず) 応じて(おうじて) 蔵ぜず(ぞうぜず)」 その意味は「過去を悔んだり、将来の取りこし苦労をしない。変化に対応して心にとどめない」と言ったところで、荘子(中国戦国時代の思想家)の言葉だが、当時の三菱商事の諸橋晋六会長が何かの雑誌か新聞で引用していたのを書き留めたものである。 諸橋さんの父君が大漢和辞典の編集者・諸橋轍次博士で、ボクはその辞典を愛用していた。 黙って聞いていた上司は、自分の近しい人が同じ病気で戦っていたことを披歴して激励してくれた。 そして奥で何やら資料を探したあと、「こういう言葉もあるよ」と言って、小さな紙に「窮して苦しまず 憂いて意(こころ)衰えず」と書いて寄越した。後で調べてみるとこれは荀子(荘子と同じ頃の思想家)の言葉だった。ホスピス医の名言
ホスピス医として著作も多い小澤竹俊さんが、残された遺族の悲しみについて書いている。 「悲しみを乗り越えるには、喪失の事実を受け入れること、悲しみから来る苦痛を表に出すこと、死者のいない環境に適応すること、亡くなった人と永続的なつながりを築くこと」(『苦しみの中でも幸せは見つかる』扶桑社)とのことだ。荘子や荀子の言葉に通じるものがある。 妻の死後、上場問題に関する社内調整や資料の作成などで仕事は忙しさを増し、却ってボクは気を紛らわせることができた。 上場の直接担当者であるボクは新宿河田町の職場から妻亡き後もそのまま居ついてしまった目白の妻の実家に深夜のタクシーを飛ばしたものだった。 会社は「8チャンネル」で、それに由来する記念日である8月8日(1997年)に首尾よく東証1部に直接上場を果たした。「美魔女」のやさしさ
男やもめになったボクを支えてくれたのは、亡き妻の実家の人々、弟妹、仕事仲間、テレビショッピングを担当していたころの戦友である。 戦友の多くは今でいう「美魔女」の頃に達していたが、その励ましがなければどうなっていたことか。ボクは彼女らに甘えることをいとわなかった。若いころは女性に気後れすることが多かったが、変われば変わるものだ。 その後、縁あって若干年の差(31才違い)のある今の連れ合いと一緒になった。男の子を連れていたが、同居してしばらく経ってかつての上司に報告した。 年齢差のことを意識しているというと、「気にすることはない。パートナーなんだよ、パートナーだよ」と彼は繰り返して言った。パートナー……、ボクの心の中で新しい概念が生まれた。「そうだ、連れ合いは妻であり、パートナーなんだ」 心臓バイパス手術を受けた後、無気力状態に陥ったことを伝えると「そんなことは食欲が出てくれば解消する」と件の上司は言う。 一方美しき戦友たちも時折連絡を寄こし、「どうしているの?」と心配してくれる。そのたびに元気が出る。なんとしても「リハビリを続けなければ」という気になる。 やはり、「人は人によって生かされている」のである。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。ハッシュタグ
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