カネで読み解くビジネスマンのための歴史講座「第41講 経済が先か、軍事が先か」
航海条例
イギリスは「中継貿易国家」オランダの資金力、販売力に依存し、経済的に下位に置かれていました。この経済依存を断ち切るために、イギリスがとった手法は強引かつシンプルなものでした。1651年、イギリスは航海条例を発布し、オランダとの通商を事実上、禁止します。 イギリスの毛織物生産者は、この条例によって、仲買人と卸売市場を失うことになるため、当然、激しく反発しました。しかし、イギリス貿易商の組合が、議会で積極的なロビイ活動を続けて、保守系議員を動かしました。 イギリスの港には、イギリスの商船よりも、オランダの商船の方が多く入港していました。イギリスの貿易商社は商船の保有数において、オランダ貿易商社に遠く及ばず、彼らの販売ルートも資金力も未だ乏しい状態にありました。 そのため、イギリスは保護貿易政策をとり、優位なオランダ貿易商社を排除して、自国の貿易商社を保護育成する必要がありました。商船建造を予算支援し、販路を開拓して、自前の販売力を高め、オランダに対抗しなければなりませんでした。政治利用
当時、イギリスは市民革命を経て、軍人のクロムウェルが革命政権を率いていました。クロムウェルはこの航海条例に対し、当初は反対していました。クロムウェルが政権基盤にしていたブルジョワ商工業者たち、つまり毛織物生産者と貿易商社が、法案の賛否を巡り、分裂する危険があったからです。 しかし、クロムウェルはこの航海条例を政治利用しはじめます。クロムウェルはオランダを挑発し、オランダと戦争をすることで、武力により、イギリスの優位を勝ち取ろうと企みました。また、戦争によって危機を煽り、国意を発楊させて、革命政権の基盤を固めることを狙いました。 クロムウェルら軍部は航海条例を根拠に、海上での臨検捜査権を発動します。イギリス艦隊はドーヴァー海峡を通るオランダ商船を「臨検」と称して、拿捕したのです。議会が想定していた航海条例の実効範囲を越えて、それはオランダを挑発するツールとして利用されました。軍事覇権により崩される経済覇権
商船の拿捕が続き、怒ったオランダはイギリスに宣戦します。しかし、オランダは飽くまで商業大国であり、イギリスとの海軍力の差は歴然としており、所詮、イギリスの敵ではありませんでした。 1652年から1674年まで、三回に渡り、イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争)が起こります。三回ともオランダが敗北し、オランダの覇権はイギリスに奪われていきます。 経済的に成功を収めたオランダは経済利益にのみ関心を注ぎ、その利権を維持し、守るための軍事に予算を回わさず、バランスの取れた覇権構造を長期的な視野で形成することをしなかったのです。 イギリスが軍艦建造の予算を確保し、着実に海軍力を増強していた時、オランダは小型の商業船の建造に力を注ぎ、軍の装備の強化を怠りました。 冷厳な合理主義者クロムウェルは、こうしたオランダの弱点をよく見抜き、オランダへの軍事攻勢こそがイギリスの長期的国益になると判断したのです。 【宇山卓栄(うやま・たくえい)】 1975年、大阪生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。予備校の世界史講師出身。現在は著作家、個人投資家。テレビ、ラジオ、雑誌など各メディアで活躍、時事問題を歴史の視点でわかりやすく解説することに定評がある。著書は『世界史は99%、経済でつくられる』(育鵬社)ほか。ハッシュタグ
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