世界文化遺産から読み解く世界史【第28回:イタリア・ルネサンスを生んだ町――フィレンツェ】

フィレンツェのシ二ョーリア広場(縮小)

フィレンツェのシ二ョーリア広場

メディチ家とともに発展した町フィレンツェ

 ヴェネツィアで重要なのは絵画彫刻などの美術ですが、これはフィレンツェのほうが先行していました。フィレンツェも絹織物を東洋から輸入することによって、織物産業によって栄えるのです。    フィレンツェは、他のゴシック都市と同じように、12世紀から13世紀に形成されました。これはシニョーリア広場を見ればよくわかるのですが、これがつくられたのが、12世紀から13世紀にかけてで、教会堂が建てられたのは13世紀から14世紀にかけてです。  フィレンツェの絵画や彫刻は、ルネサンスといわれる15世紀以降、特に絵画が発展するのですが、都市の基盤は12世紀に始まっていることを忘れてはなりません。つまりここもゴシック都市だということです。  ですから他のヨーロッパの都市と同じように、12世紀から13世紀に洗礼堂がつくられます。洗礼堂が最初に建てられるのです。そしてジョットの塔が1330年代につくられています。この時代には『神曲』を書いたダンテもいましたし、ボッカチオやペトラルカなどの詩人たちも登場しました。  フィレンツェの発展には、15世紀にこの町を統治する形になったメディチ家の存在は欠かせないものがあります。  また、ロレンツォ・マニフィコという優れた宰相が1470年頃から、フィレンツェに人文主義を持ち込みました。それは、アカデミアをつくることで、古いギリシア時代の哲学を取り入れたのです。それはキリスト教とは違う観念論で、理想的な美というものを人々の心に導くことになったのです。

ルネサンスを支えた思想

 ルネサンスというと、美術の素晴らしさばかりいわれるのですが、その美術をもたらした思想も注目されなくてはなりません。アカデミアにはマルシリオ・フィチーノらの思想家がいて、その理想主義が、ルネサンスの時代の思想的な基礎となったのです。決して美術だけが優れていたのではなく、それを生んだ新しい思想が生まれていたことが重要なのです。それまでは、3世紀以来のキリスト教が支配的でしたが、フィチーノによってギリシア哲学が取り入れられ、キリスト教との折衷が行われたのです。その結果、ボッティチェリやラファエロらの画家たちが、ギリシア・ローマ神話を主題とする作品を描くようになったのです。イタリア・ルネサンス絵画の代表作とされるボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』も、そうした思想的な背景のもとで生まれた傑作なのです。  一方、フィチーノという人が唱えたのは「メランコリー」という思想でした。人間は、多血質、胆汁質、粘液質、憂鬱質(メランコリー)の四つの気質を持っているが、その中で一番、憂鬱質という性格が、天才に近いという考え方です。  これはアリストテレスの時代からあった考え方ですが、狂気じみたものの中に芸術の本質を見る、文化の本質を見ようとすることで、芸術家を鼓舞したのです。そのような時代に、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロが登場したのがフィレンツェだったのです。  ルネサンスというと、「理性の復活」とか、「古典の開花」などとよくいわれるのですが、そうした単純なものではなく、もっと本質的なもの、創造の源泉を探り当てようとする動き、人間の文化を創る根源とは何かというところに、この時代の思想は到達していたのです。  フィチーノの思想が、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの芸術として昇華しているということは、見逃せない重要なポイントなのです。 (出典/田中英道著『世界文化遺産から読み解く世界史』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』『聖徳太子 本当は何がすごいのか』『日本文化のすごさがわかる日本の美仏50選』『葛飾北斎 本当は何がすごいのか』ほか多数。
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