「左翼老人」の源流2

共産党とGHQ

 戦前は非合法だった日本共産党は、戦後になってから、GHQ(連合国軍総司令部)が進めた民主化政策(日本弱体化政策)によって合法政党へと転換することになった。  それによって、戦前は獄中に囚われていた、のちに委員長となる宮本顕治や幹部たちは全員釈放された。国内だけでなく、中国で活動していた実力者・野坂参三も1946年の1月に日本に戻ってきた。  こうして、活動を本格化させた日本共産党だが、この年、戦後初めて行われた第22回の総選挙において5人の当選者を出して、衆議院での議席を獲得、日本の戦後政治でのスタートを切ることとなった。  戦争による悲惨な体験をした国民感情として共産党へのシンパシーが高まり、支持が集まったというのは、当然ありえただろう。このGHQの「民主化政策」によって自由を手にした労働者による労働組合運動は活発化し、国内ではデモやストライキが頻発する。  そうした国内の空気の後押しもあり、1949年に行われた第24回の衆議院選挙では日本共産党は35人の当選者を出し大躍進を遂げる。  一方、隣の中国では毛沢東率いる共産党が蒋介石の国民党との内戦を制して、社会主義国家の建国(中華人民共和国)を実現し、ソ連に続く共産主義思想をベースとする巨大国家が誕生することになった。

共産党の生い立ち

 日本共産党は1922年に設立され、同年コミンテルン(ソ連主義インターナショナル)の日本支部となっていた。それゆえ、ソ連からの指導を受けており、日本共産党は明確に日本の体制変革をめざし、天皇制の打倒も掲げていた。つまり共産主義革命を実現するための政党として活動していたのである。  終戦直前になって、日ソ中立条約を破棄して北方領土へ侵攻したソ連は、日本をアメリカ=資本主義陣営から引き離したいと考えており、ソ連による北海道占領計画さえも存在していた事実はよく知られている。  終戦後、満州で武装解除された日本軍人など50万人以上が、疲弊した国土の復興を行うための労働力として極寒のシベリアなどで抑留されたが、この時、日本の軍人はソ連兵から「共産主義教育」という洗脳を受けることになった。  シベリアに抑留されていた日本人のなかには、京都の舞鶴港に帰還船がつく際、洗脳されたままの状態で赤旗を振って下船し、そのまま共産党に入党するといったこともあったようだ。  敗戦復興の途上で、まだ食料不足などの様々な問題を抱えるなかで躍進をした日本共産党だったが、1950年になると、路線の違いから内部分裂の道を辿ることになる。  GHQの民主化政策によって活動を許された日本共産党であったが、戦後ほどなく始まった米ソの冷戦がきっかけとなり、GHQは180度方針を転換。  マッカーサーGHQ司令官は日本国内でも赤狩り(レッドパージ)、つまり公職追放を行い、共産党に対しても弾圧を行なうようになる。 参考:『左翼老人』森口朗著(扶桑社新書)





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