日本の美仏を歩く(4)――8.5メートルもある会津の立木観音
一本の立木に彫られた背の高い観音像
大地に根を下ろしてしっかり立っている、という点で、福島県の会津坂下町にある恵隆寺の立木観音ほど、それにふさわしい観音像はありません。なにせ、8.5メートルもの高い千手観音が、一本の欅の立木に彫られ、根さえ付いているというのです。確かに近年、会津地方に立てられた57メートルもある白亜の慈母観音に、大きさではかないませんが、1000年以上も前の一本の欅で造られた、こんな背の高い観音像は、今日の像より、はるかに時代の気高さを感じます。 寺伝にも、《弘法大師空海が、ある夜、不思議な霊感を覚えて目を開くと、柳の大樹に五色の雲がたなびき、千手観音の御姿が、ありありとあらわれた。大師はさっそく柳の枝を払い、皮をはぎ、根付きのままに、一刀三礼の誠をこめて、身丈八尺の立木千手観音像を彫り上げた》とあるのです。崩れ落ちた大地を仏陀は必ず救済する
空海が彫ったということは言えませんが、こうした力強い巨像を造った、という作者の力強さは、この空海作という言葉でもよく分かります。空海は『三教指帰』で、こうした像をなぜ造ったか、という解答を出しています。 《見渡すかぎりのこの大地も、その時には洪水の荒れ狂う中で、摧け裂けていきますし、高く円く弓なりのあの大空も、やがて焼けくすぶって、ことごとく崩れ落ちてしまいます。このように、宇宙が成立し、ついには破滅していくという、永劫の時間で考えるならば、天上のしずけさの中に住む、非想天の天女の八万歳といわれる悠久の寿命も、電光のひらめきよりも短いのであり、心の自由な仙人たちの数千年という生命も、雷のとどろきのように一瞬の長さにすぎないのです》。 あの地震と津波に荒れ狂う中で、あらゆるものが無常の賦として毀され、消えていく世界は、まさにこの世のはかなさを現出していました。空海は《そこに仏陀は、示現して衆生を救済されるのです》と説かれます。お寺では、そうした姿の具現化として、この像を見たのでしょう。一本の樹木に宿る精霊
しかし仏像として重要なのは、これが一本の根のある樹木で造られている、ということです。樹木というものは、まさに精霊の宿るところで、自然神なのです。日本では、よく神社に御神木があることを、皆さんお気付きでしょう。あの樹木には、精霊が宿っていると、人々は感じていたのです。すでに7世紀の白鳳、奈良時代から、樹木で仏像を造ることで、日本人は、神仏習合の精神を表していました。行基という名高い僧侶がいましたが、人々は精霊が宿っているという神木から、仏の姿を取り出し、「霊木化現仏」という仏像制作を行ったことが知られています。 木が生きて魂を持っているということは、当時の『日本霊異 記』にもたびたび出てきますが、天平宝字2(758)年のこと、大井川の砂浜の中からうめき声が聞こえます。その土地を通りかかった僧侶が、掘ってみると薬師仏の木像が、耳が欠けた姿で現れました。僧は悲しみで泣きながら供養し、仏師を招いて耳を造らせ、そして仏堂を作って安置しました。この仏像は霊験あらたかで、光を放ち、願いごとをかなえるので有名になったという話が書かれています。 この立木観音が残っているのも、同じようであったに違いありません。この像の特徴は、背の高いことだけではなく、その洗練された面の彫り方だと言って良いでしょう。腰裳の折り返しを二段にして、長い脚の部分が単調にならないように、リズムのある皺を彫っています。こうした作りから、史家が言う鎌倉時代に造られたとするより、平安時代に制作されたと考えるべきでしょう。鎌倉になると、写実性がより強くなり、このようなおおらかさが消えていくからです。8世紀の古典様式の東大寺、不空羂索観音の系統をひいたマニエリスム的な形式性を取るべきだと思います。 そうすると、これは平安初期の像と考えられます。先ほどの空海がこれを造ったという寺伝も、あながち時代的には嘘ではない、ということになります。この寺の名前の恵隆寺とは、7世紀にやってきた恵隆という僧侶が、会津の高寺に来て草庵を建てたことから始まると言われています(『新宮雑葉記』)。それは774年に焼失してしまいましたが、その再建のためにこの像が造られ、平安末までその高寺にあったと言われています。 この恵隆寺は会津にあり、この地方を二分する勢いがあった恵日寺は、法相宗の徳一という僧侶で有名です。都の天台宗の最澄と論争したことで、その名を高らしめました。空海はこの徳一を支持したのです。徳一はもともと806年に磐梯山の噴火によってこの地方が混乱した折、それを鎮めにやって来たと言われています。人の心を鎮めるだけでなく、自然の怒りを鎮める思いでやって来たのでしょう。その恵日寺が磐梯山の麓にあるのもそれを示しています。自然の怒りを鎮め衆生を助ける観音様
恵隆寺の十一面・千手観音の周囲には、脇侍である二十八部衆と風神・雷神が並んでいます。室町時代に造られたとされていますが、像高は157~175センチメートルと大柄で、数人の仏師によって制作されているようです。それぞれ出来も違いますが、大弁功徳天、摩和 羅女、神母天など、良いものがあり、優れた仏師の手になるものと思われます。 磐梯山に近いこの地も、地震には何度も襲われています。特に江戸時代初期の慶長年間に起きた大地震は、大被害をもたらしましたが、この立木観音は無事でした。荒れ狂う自然の中で、神木によって造られた観音は、衆生を助けるために立ち続けているのです。 (出典:田中英道・著『日本の美仏50選』育鵬社) 田中英道(たなか・ひでみち) 昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『日本国史』、最新刊『ユダヤ人埴輪があった!』(いずれも育鵬社)などがある。ハッシュタグ
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