日本の美仏を歩く(6)――大分、臼杵の荘厳なる石仏

臼杵石仏(縮小)

臼杵石仏 大日如来像 国宝

 大分県の臼杵(うすき)石仏は、日本では貴重な丸彫りの石仏群です。全部で60余体もあり、そのうちの59体が国宝です。石仏群の中でも、一番古い像と考えられている『大日如来』坐像の彫刻技術は、非常にレベルが高いものです。

日本神話の舞台、高千穂峡

 平成28年春、大分県臼杵市の石仏を訪れました。すでに何度か行ってはいたのですが、近くの高千穂峡の神話探索の旅を試みたので、その途中に立ち寄ったのです。  大分県の高千穂峡には、「天岩戸(あまのいわと)」が御神体として祀られています。『古事記』『日本書紀』に書かれているように、天照大神が弟の素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に怒り、天岩戸に隠れてしまう経緯がここで行われたと信じられています。その御神体である「天岩戸」があるのです。お隠れになった時に、天地が暗黒となり八百万(やおよろず)の神が岩戸川の河原に集まり神議されたと伝えられ、伝統の神楽なども多く残されています。  ただ、私は九州のこの高千穂の峰に高天原(たかまがはら)があるとは思っていないのです。というのも、高千穂は、天孫降臨(てんそんこうりん)の際、この地に水がなかった、と伝えられているからです。それで天村雲命(あめのむらくものみこと)がわざわざ「天真名井」という水源を移して来たと伝えられています。  高千穂峡も、宮崎・鹿児島にまたがる高千穂峰も、昔は、阿蘇火山の活発な火山地域にあり、水田さえある高天原のような平和な高原とは考えられないのです。私は最近の研究で、高天原は東日本の水の豊富な常陸(ひたち)地方にあり、そこから見える富士山がその象徴となっていたという考えを『高天原は関東にあった』(勉誠出版)として刊行しました。  いずれにせよ、各地に残っている神話の記憶は、それぞれの土地の人々が、『記紀』(古事記と日本書紀)の記述を自分たちの土地の地形に見立てて、それを誇りにしたのでしょう。それ自体が、土地の記憶として長い歴史を持っているので、決してどこの土地が正しいとか、正しくないとかは言えません。

臼杵石仏は自然の神像

 ところで、この臼杵の石仏ですが、神話の神々は、決して神像となって表現されないため、あたかもこの石仏が、神仏融合像となって表されているような印象を受けます。臼杵の仏像群は、もともと山深く修行を行う山岳宗教のためにありました。岩山の崖面に彫られているのは、自然神として考えられていたからです。  この一帯も、太古の昔に阿蘇山の大噴火によって火山灰が堆積した地方であり、それから生じた凝灰岩によって造られたのが、これらの磨崖仏です。切り立った岩山の崖面に掘られ、崖が軟質の石なので、損傷が激しいのでしょう。石仏の下半身の彫りが見にくくなっているのも、大雨の際の氾濫で削り取られたからと言われています。近年になって、風雨にさらされないように、屋根を設けるようになりましたが、お寺の中にある仏像と違って、自然の神像という印象はぬぐえません。日本では数少ない、丸彫りの石仏群です。  これら磨崖仏は、4か所に分かれ、それぞれ古園石仏群、山王石仏群、ホキ石仏第一群(堂ケ迫石仏群)、ホキ石仏第二群と呼ばれています。全部で60余体もあり、59体が国宝になっています。私が最初に見たのは学生時代で、当時古園石仏群の中尊である『大日如来』坐像の頭が、落下して胴体の前に置かれていたのを思い出します。しかしこれも1991~94年までに修復され、95年には国宝となり、今や立派なギャラリーになっています。  ここに掲げたのも、この『大日如来』坐像の復元像です。この仏像は、石仏群の全体の中でも聖域と呼ぶべき山王社の麓(ふもと)に造営されているので、一番古い像であると考えられています。像容もその高い彫刻技術は、多くの木彫や金銅仏、漆喰(しっくい)の像と比べても、オリジナルな状態ならば、決して劣らなかったでしょう。  別府大学の仲嶺真信氏によると、この像に近いものは、京都、仁和寺北院の『薬師檀』像だと指摘されています(賀川光夫編『臼杵石仏――よみがえった磨崖仏』(吉川弘文館、1995年)。同じように眉が大きく、温雅な表情をし、裳懸座(もかけざ)に座っていることも共通しています。そしてこの像は康和5(1103)年に円勢・長円という仏師によって造られたことが分かっています。

浮かび上がる平安末期の華やかな彩色

   以上のことから、『臼杵石仏大日如来』坐像は、こうした仏師が、ここにやって来て制作したとも考えられます。  伝説では、この地方を治めていた人々から「真の長者」と呼ばれた豪族が、我が子が死んだ時、それを悼(いた)み、遠く中国から蓮城(れんじょう)法師を呼んで、ここに大磨崖仏群を建立させた、と述べているそうです。当時は、中国には偉いお坊さんがいる、という信仰のようなものがあったから、こんな伝説が生まれたのでしょう。雲崗(うんこう)や龍門の石窟なども、石窟の仏像だから、磨崖仏は、中国から来た僧侶が建立したに違いない、と思ったのかもしれません。  しかし、同じ遠い国でも、京都から来た仏師だと思われます。というのも、中国の仏教は道教的で、解脱をめざした謹厳なものではないものが多いのです。  これは誰がいつ頃造ったのか、はっきりした文献が残っていないため、明確な年代は分かりませんが、平安末期から鎌倉時代にかけて彫られたのではないかと考えられてきました。仲嶺氏は、さらに京都の円隆寺の如来三像や、来迎院の三尊像などを挙げて、その類似から、年代を平安時代末期の12世紀前半だと考えています。私は、これは鎌倉時代に入ることはない、と考えていましたから、1110年代頃が妥当だと思います。  円勢・長円という仏師は京都の院派ですから、この地方が、京都摂関家と密接な関係があったことが分かります。今でこそ、色彩が取れて皆くすんだ茶色に見えますが、ホキ阿弥陀三尊などは唇に紅色が残っており、当時、岩肌に彫られた磨崖仏にはすべて着彩が施され、華やかな平安仏が立ち並んでいたことでしょう。 (出典:田中英道・著『日本の美仏50選』育鵬社) 田中英道(たなか・ひでみち) 昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『日本国史』、最新刊『ユダヤ人埴輪があった!』(いずれも育鵬社)などがある。
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