日本の美仏を歩く(7)――鎌倉の大仏は芸術作品である

鎌倉大仏(縮小)

高徳院 阿弥陀如来坐像(鎌倉大仏) 国宝

 神奈川県鎌倉市の高徳院にある『鎌倉大仏」坐像は、時代の文化を象徴する像です。室町時代に起きた津波によって大仏殿が損壊したため、現在のような露坐となりました。歴史的価値の高さを再確認してみましょう。

鎌倉時代の文化の象徴

 鎌倉大仏を中心とした寺院群は、世界文化遺産に登録されるべき地域だと誰もが思うでしょう。鎌倉時代の文化がこれほど残っている歴史的な地域はありません。鎌倉時代(1185~1333年)はヨーロッパで言えばゴシック時代で、その古さにおいてもひけをとりません。そのゴシック彫刻と勝るとも劣らない彫刻・絵画を多く創造した鎌倉時代を代表する都市が、世界文化遺産に登録されてないのは、残念なことです。  鎌倉市は、高徳院の鎌倉大仏を中心にして世界文化遺産の立候補地に挙げなかったために、建造物の時代の一貫性を欠いてしまいました。建築は江戸時代の再建が多く、彫刻に名品が少ないのです。そのため、候補地にも挙がらなかったのです。  しかし、鎌倉文化について『鎌倉大仏』坐像の芸術的な重要さを中心に据えて、鎌倉という地域を押し出せば、確実に世界文化遺産に値するでしょう。きっと地元の人々は、『鎌倉大仏』坐像が露坐されているために、その価値を見誤っていると思います。また、普段から見慣れているので、それが秀逸な美術作品であることを忘てしまっているのでしょう。鎌倉市も世界文化遺産登録のために、プレゼンテーションをがんばってほしいと思います。  さて、拙著『世界文化遺産から読み解く世界史』(育鵬社)において、奈良の東大寺とローマのサンピエトロ大聖堂を比較して、その巨大さが共通していることや、東大寺の建立の古さと、国家宗教としての格の高さを述べました。  その中で、今の『奈良大仏』像は江戸時代に再建されたものなので、芸術作品と呼ぶのは躊躇されるので取り上げませんでした。火災や災害に2回も遭っているので仕方がないのですが、天平時代の古典性が失われているのです。  しかし、東大寺の『大仏』像からちょうど500年後に造られた『鎌倉大仏』坐像は、屋外に安置されていながらも芸術性を残しており、誰もがそこに、鎌倉時代の仏像の謹厳な一端を見ることができます。

特徴は、生きている表情

 歌人・与謝野晶子(1878~1942年)が、『鎌倉大仏』坐像を詠んだ句があります。  《鎌倉や みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな》    ここにある「美男におわす」には深い意味があります。それは、そのままの美形という意味ではなく、生き生きとしているという意味なのです。角張った、平面的な面相ですが、理知的で、細く切れ長の目、少しふくらんだ上まぶた、弓なりの眉は太い鼻梁に深く続いており、眉目秀麗と言っていでしょう。それが単に形式的に表されているのではなく。生きているのです。  『鎌倉大仏』坐像の像高は約11.31メートル(台座を含めると13.35メートル)もあります。猫背気味の姿勢で、体部に比して頭部が大きい容姿です。しかし衣文(えもん)は量感があり、深く鋭い彫りで巧みにまとめられています。低い肉髻(にくけい=頭髪部の椀状の盛り上がり)は、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しています。浄士教信仰に基づく『阿弥陀』像は「来迎印」(右手を上げ、左手を下げる)を結んでいる姿が多く見られるのに対し、本像は、膝上で両手を組む「定印(じょういん)」を結んでおり、真言ないし、天台系の信仰に基づく『阿弥陀』像であることが分かります。

歴史書から読み解く『鎌倉大仏』坐像

 鎌倉時代に成立した日本の歴史書である『吾妻鏡』には、暦仁元(1238)年、深沢の地(現・大仏の所在地)で僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元(1243)年に開眼供養が行われたという、記述があります。また、同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3(1242)年に完成前の大仏殿を訪れ、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記しています。  そして「吾妻鏡」には、建長4(1252)年から「深沢里」で金銅八丈の『釈迦如来』像の造立が開始されたとの記述もされました。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈されるので、1252年から造立開始された大仏が、現存する鎌倉大仏だったのでしょう。  以上が定説です。ただし、木造の大仏が銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説があります。寺伝によれば、作者は上総国(現在の千葉県中部)の鋳工であった大野五郎右衛門と伝えており、鋳造した工匠には丹治久友の名が挙がっています。  丹治久友は関西から来た鋳工で、奈良県吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)藏王堂の鐘銘に「大工鎌倉新大仏鋳物師」とあったとされ、奈良や関東の寺の鐘を鋳造していた記録も残っています。ですから、大野―丹治との合作と考えていいでしょう。  いずれにせよ、奈良の大仏を造ってから500年が経ち、新たな都市の鎌倉にふさわしい大仏を造ろうと幕府も力を入れたに違いありません。この大仏に関する史料が少ないからと言って、『鎌倉大仏』坐像の重要性を蔑ろにしてはなりません。明応4(1495)年に津波のために大仏殿が損壊し、今のように露坐になったそうですが、像にとっては良くありません。しかし、露坐もすでに5世紀以上が経ち、歴史的なものなので、このままでも構わないと思います。  これを機会に、鎌倉大仏を中心にして、世界文化遺産に再び立候補するべきだと思います。 (出典:田中英道・著『日本の美仏50選』育鵬社) 田中英道(たなか・ひでみち) 昭和17(1942)年東京生まれ。東京大学文学部仏文科、美術史学科卒。ストラスブール大学に留学しドクトラ(博士号)取得。文学博士。東北大学名誉教授。フランス、イタリア美術史研究の第一人者として活躍する一方、日本美術の世界的価値に着目し、精力的な研究を展開している。また日本独自の文化・歴史の重要性を提唱し、日本国史学会の代表を務める。著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『日本の文化 本当は何がすごいのか』『世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本の美仏50選』『日本国史』、最新刊『ユダヤ人埴輪があった!』(いずれも育鵬社)などがある。
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