pato「おっさんは二度死ぬ」――何もしてないのに憎まれる、大多数の“おっさん”の哀しみ<書評・ロマン優光>
しかし、彼らのような不快な存在としてずっと生きていく人だけが邪悪な存在だと他人から見られるようになるわけではない。
悲しいことだが、全く悪意もないのに彼らと同一視されるようになる場合もある。間抜けなガキが間抜けなまま年をとってきただけなのに、間違って権力をもってしまった人、そして自分の権力に無自覚である人たちだ。彼らは子供の時と変わらず無邪気に間抜けであるだけなのに、権力を持っているために時として害悪にしかならなくなってしまう。
これは悲しい。ひたすらに悲しい。何かを勘違いしているわけではないから是正もできない。そして現代の日本社会では男性であること、年長者であることは普通にいけば多少なりとも権力を持ってしまうようになっている。
本編に登場するような権威性が最初から剥奪された中年男性として現実であろうとすることがいかに困難なことか。中年以上の男性であること、それ自体が権力として機能してしまう以上、生きていること自体が害悪になってしまう可能性があるということなのだから。
そういった面も可愛さや相手からの尊敬の念が迷惑を上回っていれば愛される存在として生きていける。しかし、そうでない人はどうなのだ。地下アイドル現場という社会では、おじさんたちだって必要とされている。アイドルであるためにはファンは必要なのだから。
そういう前提があるのに関わらず、何も悪いことをしないのに愛されないおじさんもいる。こういう人たちの何が悪いかというと、ほんの些細なデリカシーのなさだったりするわけだが、それだって本来だったら問題にされるようなレベルではないのも確かなのだ。
可愛いおじさんがやったことなら誰も気にしないようなことでしかない。そう、こういうおじさんたちは本来は大きなマイナス点もないが、大きなプラス点もない。ただ、おじさんであるという後天的な自分では何ともならないマイナスポイントによって、愛されない存在になってしまうのだ。
存在が必要とされている場所ですら何も悪いことをしないのに愛されない存在になるのだから、世間一般という、存在が必要とされてない場所でどうなるかは言うまでもない。
我々中年男性の大半は愛すべきおっさんでも、威張りくさったおっさんでもなく、最初のエピソードに登場するお父さんみたいな存在である。何の悪気もないのに、無自覚に虎の尾を踏み、挽回する知恵も度量もないままに憎悪の対象になってしまうような存在だ。
本作は、優しい寓話である。中年男性は生きているだけで不快な存在である可能性を秘めた存在なので自覚しなさい……そんな哀しい真実を優しくて物悲しい物語にのせて伝えようとしている。
哀れで自覚的な中年男性に優しいファンタジーであると共に、若者に愛すべきおっさんという架空に近い生命体の存在を説くことで中年男性のイメージアップが図られてはいる。
しかし、優しい寓話の根底に潜むのは逃れられない哀しい真実なのだ。
【ロマン優光】
ミュージシャン。1972年高知県生まれ、早稲田大学第一文学部中退。ニュー・ウェイヴバンド「ロマンポルシェ。」のDELAY担当。ソロのパンクユニット「プンクボイ」(PUNKUBOI)としても活動。著書に『音楽家残酷物語』(ひよこ書房)、『日本人の99.9%はバカ』『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』『90年代サブカルの呪い』(コア新書)など。「ブッチNEWS」でコラム連載を隔週金曜更新中。
優しい寓話の裏に潜む、哀しい真実
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『pato「おっさんは二度死ぬ」』 “全てのおっさんは、いつか二度死ぬ。それは避けようのないことだ"―― |
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