pato「おっさんは二度死ぬ」――何もしてないのに憎まれる、大多数の“おっさん”の哀しみ<書評・ロマン優光>
地下アイドルのライブに行くと、色々なおじさんに出会うことができる。
そういった世界と関わりがない人が考えるように全てのおじさんがアイドルから嫌われているかというと、そういうわけでもない。アイドル側もおじさん側も客と演者の関係にあるということを互いに忘れなければ、おじさんであるという理由だけで嫌われるという状況が必ずしも起こるわけではない。
一方的な恋愛感情を振りかざしたり、パワハラめいた態度をとったり、私生活に踏み込むような態度をとらなければ基本的にはむやみに嫌われたりはしない。なぜなら、基本的には「お客さん」だからだ。
しかし、世の中は不公平なので、ろくに金を使わずバカなことばかりやって一見迷惑なおじさんなのにアイドル側に愛されてる人もいる。その一方で、いつもライブに来て変なこともせず一生懸命お金を使って応援しているのにも関わらずアイドル側からもオタク側からも愛されない人もいる。何も悪いことをしていないのにも関わらずにだ。
書籍「おっさんは二度死ぬ」には、本文中の表現を借りれば「愛すべきおっさん」が何人も登場する。彼らの言動はバカな中学生男子のそれと似ている。
明らかに間違ったこだわり。底の浅いひねくれ。むやみな実行力。生産性のなさ。優等生でもスポーツマンでも不良でもない、あの間抜けで愛すべきボンクラ中学生男子たちに。良くも悪くも彼らは無邪気で可愛い存在だ。
彼らが、内面的にも対外的にも中学生男子のような無邪気な可愛さを保っていられるのは、彼らが権威性を帯びてないからだ。偉くもなんともない人たちであり、権力を持ち合わせてない。
彼らは一見、無茶苦茶なことを言って他人を困らせるかもしれないが、それに他人が応える時、それはあくまで付き合ってあげているだけで、従っているわけではない。可愛さに免じて許しているだけなのだ。いや、それに付き合うのも可愛さを満喫しているということなのかもしれない。
こういった人たちは、間抜けなガキのまま育ち間抜けなアンちゃんになり、間抜けなアンちゃんとして年を重ねて間抜けなおじさんになった人たちで、その間抜けさゆえに偉くなることができなかった一方で、その可愛さを保ち続けているわけだ。
では、作中で「世にはびこる威張り腐ったおっさん、ハラスメントに忙しいおっさん、気持ち悪いおっさん、若い子をつけ狙うおっさん。それらはなんだろうか」と 「愛すべきおっさん」と対比されている人たちはどのような人たちなのか。
作者は、勘違いをした時にそのようになるという答えを用意している。これは、ほとんど正解であると言っていいと思う。あくまで、ほとんど正解であるというのは、本編でははっきり触れられていない悲しい真実がこの世にはあるからだ。
基本的には、威張ってるような人間、ハラスメントを行うような人間は、自分が偉い人間であり特別であると信じて疑わず、他人を蹂躙することに躊躇しない人間だ。
思い切り勘違いをしている。勘違いをしているが、こういう人たちは不快な子供から始まって不快な若者になり、不快なおっさんをへて、不快な爺として終わるタイプだ。最初から勘違いしているわけだ。
たいていの人は中年以降は年功序列が守られている世界では何らかの権力を手にしているわけで、それを振るうことができるようになるので、中年以降に悪質さが目立つわけだ。基本的には。
不快な子供が不快な若者となり、やがて不快なおっさんになる
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『pato「おっさんは二度死ぬ」』 “全てのおっさんは、いつか二度死ぬ。それは避けようのないことだ"―― |
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