京都・祇園の「夜の街」はコロナ前から詰んでいた!?“老舗の看板”で飯は食えず…
コロナ禍で日本各地の歓楽街は大打撃を受けている。筆者は11年間、キャバ嬢やホステスとして京都の木屋町・祇園で勤務してきた。最後に勤めていた祇園のスナックは、コロナの波に勝てず6月をもって閉店。近隣の多くの店が閉店や縮小移転に追い込まれた。
京都の祇園といえば、東京・銀座や大阪・北新地と並ぶ高級歓楽街として知られている。
今でこそ比較的安価なキャバクラやガールズバーが増えたものの、ひと昔前は「座るだけで1万円」と言われるような店ばかりだった。
当然、客層のほとんどが裕福なサラリーマンや経営者ばかり。20~30代の若年層は比較的リーズナブルな店が多い木屋町に行き、社会的ステータスのあるものは祇園で飲む。だからこそ街としての「格」があった。
しかし、それが通用していたのもバブル期までだ。
筆者が初めて祇園で働いたのは11年前の2009年。当時はガールズバーで勤務していたが、その頃でも既に「祇園はもうあかん」と言われつつあった。
リーマンショックの後を引き客足が少なくなっていたのはもちろん、街全体が「客の新陳代謝」ができずにいたのだ。
昭和の頃であれば、上司が部下を飲みに連れてきて、その部下が「枝」となり店の新たな常連となっていた。
しかし、年々寂しくなっていく若年層の懐事情では、高級クラブやスナックに気軽には立ち寄れない。だからこそ安価で飲めるガールズバーが流行ったわけだが、同じガールズバーでも祇園と木屋町では値段が2倍は違う。
筆者は祇園のキャバクラで働いたこともあるが、そこに来るのはやはり中年以上の客がメイン。30代までの若年層は、会社の飲み会で訪れることはあってもその後常連にはなりにくかった。
数年前から「若者のキャバクラ離れ」が取り沙汰されていたが、夜の街で働いているとその問題は常に肌で感じていた。
木屋町のキャバクラであれば若年層の常連も祇園に比べて多かったが、彼らの大半がクーポンなどの割引を使うか、キャッチと価格交渉をして入ってくる。
結局、店や街を支えていたのは中年以上の富裕層だ。
客の新陳代謝、世代交代ができないままでいると、街はいつか終わる。その後押しをしたのがコロナだった。
筆者が勤務していたスナックでは、コロナ以前から「オリンピックの頃まで耐えられないのでは」と常連客から密かに噂されていた。
筆者が入店した約6年前は、週末ともなれば満席であったが、年々客足は減少。ひどい時は平日で1組、週末でも来店客は片手で数える程度の時も多々あった。
料金はハウスボトル付のセット料金6千円のみ。ビールなどを頼めば別途料金がかかるが、時間制限はなくオープンからラストまで6千円で飲めた。それだけでは当然、利益などほとんどのぞめない。
祇園のスナックの中でも格安の部類であったにもかかわらず、なぜ客足が遠のいたのか。その最たる理由が、常連客の高齢化だ。
前述のように、若年層の「枝」を作りにくくなり、顧客の8割が開店~バブル期前後からの常連客ばかり。
若い頃は毎日飲み歩いていた層も、歳とともに祇園に出る頻度が下がり、病気などで姿を見せなくなった客も多い。
筆者もよく同伴してくれていた常連客との死別を経験した。
60代だったその常連客は、店が暇な時期には毎日飲みに来てくれ、経営を助けてくれていた。しかし今年の正月明けに脳梗塞で急死。彼が緊急搬送された日は、実は筆者との同伴を約束していた日だった。連絡が無いことを不信に思い、何度も電話をかけた結果、親族から折り返しの電話があった。
だからこそ彼の死を知れたものの、店の常連客の中にはその生死が分からないまま「あの人最近来なくなったな」と消えていく人もいた。
しかし、京都・祇園に限っていえば、コロナはきっかけのひとつでしかない。祇園の街は年々客足が減少していた。その背景にあるのは、祇園という「伝統を重んじる老舗の歓楽街」が抱える経営・高齢化問題だ。
若者の「夜の街離れ」
経営者と客の高齢化
福岡県出身。フリーライター。龍谷大学大学院修了。キャバ嬢・ホステスとして11年勤務。コスプレやポールダンスなど、サブカル・アングラ文化にも精通。X(旧Twitter):@0ElectricSheep0、Instagram:@0ElectricSheep0
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