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故・赤尾敏の大日本愛国党は今どうなった?

「近いうち」が現実となり、国民そっちのけで上を下への大騒ぎを繰り広げる永田町。たちあがれ日本が太陽の党になったと思ったら今度は日本維新の会と合流とか、もう何がなんだかわからない。そんな混沌とした政党の歴史を今一度振り返りつつ、ニッポンの未来を考えよう! 【大日本愛国党】 ’51年、赤尾敏によって結成。人道主義の理念による社会改革、共産主義反対、資本主義是正を信条とする。国会での議席獲得はなし ◆毎日の街頭演説を途切れさせないために出馬していたんです
赤尾敏

赤尾敏

 政見放送で「自由民主党は国賊のような野郎どもだ。賄賂取ったり嘘ばっかり言ってんだから」と言ってのけるストレートな物言いや、迫力ある風貌が印象的だった大日本愛国党の赤尾敏氏。結党から約40年間、91歳で亡くなるまで数多くの選挙に出馬し続けたが、一度も当選とはならず……。 「赤尾先生は一言でいうと“庶民の味方”でした。もともと選挙とは無関係に毎日街頭演説を行っていましたが、選挙期間に入ると規定により政治活動はできなくなる。自身の活動を途切れさせないために、あえて出馬していた部分が大きかったんです。選挙になれば大政党と同じ土俵に上がれる利点もありますし」(舟川孝総隊長)  ってことは当選が目的じゃなかった? 「参議院不要論を訴えるために参院選に出馬し、『国民の政治不信を棄権で示せ、投票をボイコットせよ』と主張したことがあって。私が『それで先生が当選したらどうするんですか』と尋ねたら、『そりゃキミ、やるに決まってるだろ』と(笑)。まあ、議員になれば発信力も大きくなりますからね」 ◆カリスマ・赤尾敏氏亡きあとの活動やいかに?  そんな赤尾氏亡きあと、離党者や独立者、高齢で亡くなるなどで党員数は現在6分の1に減り、選挙にも出ていない。 「赤尾総裁だからあそこまでできたというのが大きい。私自身でいえば地方議会になら視野を向けないでもないけれど、出馬するなら勝たなきゃなりません。となると正直、愛国党の名はないほうが戦いやすい面もある。党員であることに誇りはありますが、世間からは右翼の代名詞として“特殊な人たち”と見られてますから。初対面のお年寄りに『愛国党はテロリストを養成してるんでしょ。今まで何人殺したの』と聞かれ啞然としたことも。でも党名を捨てれば赤尾先生の生き方に反する。そのジレンマがあるんです」  ならば、今後はどんな活動を? 「何か問題が起これば党として抗議活動なども続けていきますが、一方でもっと地域社会に根ざした活動も行っていくと。今でも神社などと一緒に日本の祭事の本来の意味や大切さを伝えていますが、そうした日本の伝統を守る活動にも力を入れつつ、今の時代に合わせた方法論を模索しています」 【故・赤尾 敏氏】 1899年生まれ、1990年没。公職追放解除後の’51年に大日本愛国党を設立。街宣車での街頭演説で知られる。’89年には90歳で参院選出馬 ― ニッポンの政党(笑)盛衰史【2】 ―
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