夢と希望でヘトヘトになった人へ――為末大×禅僧・南直哉、異色の問答
「人より速く走ることが、なぜ『すごい』のだろう? その根拠が実感できない」
「勝つのはいいことで負けるのはダメ、という一つの価値観の中にいながら、いつも自分がそこからズレている気がしていました」
競争が苦手な文学青年のセリフではない。なんとオリンピックに3大会も出場した為末大さんの口から出た言葉である。為末さんは400mハードルで世界選手権銅メダルを獲るなど活躍したあと、2012年6月に引退。“走る哲学者”とも称される。
このほど、為末さんと、禅僧・南直哉さんの対談本『禅とハードル』が刊行された(サンガ刊)。為末さんは4~5年前から南さんのほとんどの著書を読んでいて、今回、青森県・恐山に南さんを訪ね、10時間もの対談が実現した。その刊行記念対談(2月19日、紀伊国屋ホール)で出たのが冒頭の言である。
為末さんと話した印象を、南さんはこう語る。「この人がよくスポーツをやってたな、と思いましたね。生きづらいだろうな、と。自分が信じている価値とか意味の根拠を疑わずにいられない……そういう“性質”を持った人間っているんです」。かくいう南さん自身、そういう“性質“で煩悶した末に、サラリーマンをやめて25歳でいきなり永平寺に飛び込んでしまった人だ。
◆何かが足りない、という思い
『禅とハードル』は、のっけから、為末さんの最後のレース(2012年6月8日、陸上日本選手権)について南さんが質問するところで始まる。
「あなた、そのレースで転倒したんでしょう? あの瞬間、何を思ったんですか?」
そして、為末さんはずっと抱えてきた「モヤモヤした思い」「何か足りない感じ」を吐露する。刊行記念対談での言葉を借りれば――
「(オリンピックや世界選手権に出たとき)嬉しかったし、もっと祭りに乗っかれると思った。でも、自分が先に冷めていっちゃうんです。僕は昔からそうなのですが、人と一緒になってワーッと熱くなることができない」
「頑張って『これぞ正解』と思うものを掴むんだけど、掴んでみると正解だという感じがしない。そういうことを繰り返していました」
「自分って何だろうか。あると思い込んでいる自分というものは本当にあるのだろうか」
これらの問いに、南さんは答えを出したりはしない。ただ、とことん言語化してゆく。「『自分』という存在に根拠などないのではないか、『私』が『私である』という感覚など作り物にすぎないのではないか。だとしたら、この世で意味とか価値とか言われていることにも根拠がないのではないか。これが仏教でいう『無常』という認識です。それにかなり近いものを、為末さんが持っていると感じます」(南さん)
その「自分」という意識は、行為のコントロール次第で融解してしまうのだという。南さんは「坐禅」によって、為末さんは走っているときに体験した「ゾーン」という状態によって、「自分がなくなる」感覚を実体験したそうだ。同書には、為末さんが南さんの指導で、坐禅を組むパートがある。坐禅作法が具体的に書かれているので、坐ってみたい人の参考になるだろう。
◆夢はほとんど叶わない
私たちは年がら年中、自分を持て、自己実現しろ、希望を捨てるな、頑張れば夢は叶う、と鼓舞されている。でもどこか嘘くさくないだろうか?
「初めてオリンピックに出たときに気づいてしまったのですが、金メダルは1つしかない。どの選手も頑張っているのに、ほとんどの人の夢は叶わないんです」(為末)
もちろんこれはスポーツに限った話ではない。
「叶う人はわずかだから、夢と希望でヘトヘトになる人がたくさんいます。夢と希望が悪いとは言わないが、なくたってかまわない。解除してしまえばいい」(南)
「でも、“夢と希望”がしっくりきている人には、僕らが一体何の話をしているかわからないでしょうね」(為末)
「そういう人に、この本はいらないですよ。しっくりきている人が多いなら結構なことで、この本がすごく売れたら、かえっておかしい(笑)」(南)
逆に言えば、何かしら違和感を抱えた人にとって、(南さん流の)仏教はものすごく効く。恵まれた王子だったお釈迦様が、猛烈に“しっくりこなくて”家を出たとき、仏教は始まったのだから。 <取材・文/日刊SPA!編集部>
【南直哉(みなみ・じきさい)】
1958年、長野県生まれ。禅僧。青森県恐山菩提寺院代(住職代理)、福井県霊泉寺住職。早稲田大学文学部卒業後、サラリーマン生活を経て、1984年曹洞宗で出家得度。同年から、曹洞宗・永平寺で約20年修行生活をおくり、05年より恐山へ。著書に『恐山』(新潮社)、『語る禅僧』(筑摩書房)、『老師と少年』(新潮社)等がある。
【為末大(ためすえ・だい)】
1978年、広島県出身。広島皆実高校卒業後、法政大、大阪ガスと進み、2003年プロ陸上選手へ転向。世界陸上大会においてトラック種目で日本人初となる2つのメダルを獲得し、オリンピックにも3大会連続出場。世界陸上400メートルハードルで出した47秒89は、未だに破られていない日本記録(2013年1月現在)。2012年6月、惜しまれつつもその現役生活に終止符を打った。著書に『走りながら考える』(ダイヤモンド社)、『走る哲学』(扶桑社新書)、『日本人の足を速くする』(新潮社)等がある。
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