世界史の中の日本 本当は何がすごいのか【第5回:日本とイタリア(続)】

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(縮小)

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

散逸した支倉常長の日記には何が書かれていたのか


 支倉常長を正使とする慶長遣欧使節について語り、評価する歴史家はほとんどいません。支倉使節が帰国したときはすでにキリシタン禁教令がしかれており、支倉常長も間もなく没しました。このことから、支倉使節は成果がなかった、という評価がもっぱらなのは残念なことです。

 支倉常長は伊達政宗の書簡を法王に渡しました。その書簡は通商を認めるとともに、宣教師派遣を望んでいます。でも、キリシタン禁教令はすでにしかれ、それは不可能になっています。書簡が書かれたのが禁教令以前だったとしても、その予想はいくらかはあったはずで、そうなると、政宗の意図がどこにあったのかが問われます。そこから、伊達政宗はキリシタン勢力と組んで徳川に挑み、天下を取る意図があったなどと、奇説珍説が飛び出すことにもなっています。

 常長が旅行中に記録し、どこかに散逸してしまった19冊の日記。確実な解答を出すにはこれを見つけ出す以外にないと思います。

支倉らはルネサンスの中心地フィレンツェで何を見たのか


 この当時、ミケランジェロは亡くなっていましたが、彼が設計したサン・ピエトロ寺院は建設が進み、すでにファサードは完成していたはずです。支倉常長はいま私たちが見ることができるサン・ピエトロ寺院の姿を、しっかりと見たに違いありません。

 このあと、支倉使節の一行はフィレンツェに向かいました。外交という観点ではすでに目的を達していて、特にフィレンツェに行く必要はありませんでした。それでも出かけていったのは、メディチ家が支配するこの都市の文化的重要性を知っていたからに違いありません。

 その頃のローマは古代からの遺跡、遺産が盛んに発掘され、彫刻家のベルニーニ、ボロミーニ、画家のカラバッチオなどの芸術家が活躍し、バロック時代を迎えていました。一方、フィレンツェは「ルネサンス」の中心地でした。支倉使節はその両方に身をさらしたわけです。

ヴェネツィアのスパイが記していた支倉使節に関する報告書


 この支倉使節のフィレンツェ行きはほとんど知られていませんでした。おもしろいのはその発見の過程です。

 時代はくだって1872年、岩倉使節団はヴェネツィアに向かいました。そして、その公文書館で支倉常長がフィレンツェに行ったことを示す資料を発見するのです。ヴェネツィアは通商が中心の都市国家です。外交が何よりも重要であり、そのためには情報が不可欠です。ヴェネツィアは各地にスパイを派遣し、情報戦に非常に長けていました。フィレンツェにいたヴェネツィアのスパイが支倉使節の来訪をキャッチし、それを観察した報告書が公文書館に収まっていた、というわけです。

 当時のイタリアの国情がうかがえると同時に、支倉使節への注目度の高さも伝わってくる話です。

(出典/田中英道著『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』育鵬社)

【田中英道(たなか・ひでみち)】
東北大学名誉教授。日本国史学会代表。
著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。

[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか

他国の歴史と比べることで見えてきた日本の“いいところ"。




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