世界史の中の日本 本当は何がすごいのか【第7回:日本とイギリス(続)】

ウィリアム・アダムス像(長崎県平戸市)

ウィリアム・アダムス像(長崎県平戸市)

イギリスとの結び付きによって生まれたユダヤ資本との関係

 岩倉使節団がヨーロッパを訪れていたころ、ユダヤ人排斥の風潮はヨーロッパ各地にあり、その傾向があまりないプロテスタントの国、イギリスやオランダにユダヤ人が多く集まっていました。このことがイギリス繁栄の一つの基盤になったことは紛れもない事実です。そして、これは近代化する日本とも結び付いてくるのです。ロイター通信社の日本での支局開設はその象徴といえます。  スペインが世界に覇を唱える過程で行った略奪、殺戮の悪辣さは、余すところなく伝えられています。では、世界に植民地を広げたイギリスはどうだったのでしょうか。スペインと大同小異であったことは確かです。中国支配を目論んで仕掛けたアヘン戦争の汚さは、その一端を示しています。しかし、その実態はスペインのようには広まっていません。そこにはロイター通信社に象徴されるユダヤ資本の情報操作があったことを知らなければなりません。  日本はイギリスに接近し、1902年に日英同盟が結ばれました。そして、1904年に日露戦争が起こり、日本は勝利します。その裏にはこういうことがあります。シフというユダヤ人実業家が日本の高橋是清に資金を渡しているのです。これが日露戦争の帰趨に影響したことは否定できません。日本がイギリスと結ぶということは、ユダヤ資本と結び付くということでもあったのです。

日英同盟の功罪

 日英同盟は世界の中で日本に有利な地位をもたらしたといえます。第一次世界大戦では日本はイギリスの要請を受け、国内世論の反対を押し切って巡洋艦を地中海に派遣、イギリス海軍やオーストリア海軍の艦船の護衛に当たり、ドイツのUボートと死闘を繰り広げました。また、中国大陸ではドイツの租借地となっていた青島をイギリス軍とともに攻撃、これを陥落させました。こうして日本は戦勝国の側に立つわけですが、これも日英同盟という軸があったからです。  この日英同盟では印象的なことがありました。1921年、当時皇太子だった昭和天皇が英領のシンガポールを経てヨーロッパに渡られ、イギリス、フランスを歴訪されたのです。イギリスでは大歓迎され、ジョージ5世国王とご会見になりました。天皇と王を戴くという日本とイギリスの近似性が、ユーラシア大陸の東端と西端に位置する島国を結び付けるという象徴的な出来事でした。  しかし、日英同盟を主軸にした日本の動きはそれなりに日本に優位をもたらしましたが、それは同時に日本が欧米流の植民地的支配戦争に巻き込まれていくということでもありました。

日英関係の推移は両国のその後の歴史に大きな影響を及ぼした

 そして変化が訪れます。1921年、ワシントン会議と日英米仏四カ国条約の締結によって、日英同盟は解消されます。その裏ではユダヤ資本がアメリカに傾いていくという動きが進んでいました。その流れが日米開戦となって姿を現すわけです。  日本とイギリスの関わりは、イギリスが世界制覇の舞台から退く局面にも日本を立ち会わせることになります。  大東亜戦争の戦端を開いた日本は、イギリス領のシンガポールを攻撃します。そして1942年2月15日、パーシバル将軍率いるイギリス連合軍は山下奉文中将率いる日本陸軍に降伏しました。これはイギリスの世界制覇が最終的に終止符を打つ節目となりました。これから以後、イギリスは東洋から撤退せざるを得ない状況になっていくのです。  日英関係の推移は、明治維新から近代化を成し遂げて世界の舞台の中心に出ていく日本の変化と歩調を合わせるものでした。このことは決して忘れてはならないことだと思います。 (出典/田中英道著『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか

他国の歴史と比べることで見えてきた日本の“いいところ"。

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