日本の歴史 本当は何がすごいのか【第7回:鑑真は日本への渡航を、なぜあきらめなかったのか?】

正倉院(縮小)

「シルクロードの東の終点」正倉院

遣隋使、遣唐使よりも「遣日使」のほうがはるかに多かった!?

 奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、高床式校倉造りの壮大な倉庫で、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。  その御物には唐や西域、さらに遠くペルシャから渡ってきた品々が数多く含まれています。そこから正倉院を「シルクロードの東の終点」といったりします。  この呼び名に間違いはありません。確かに多くの文物が大陸から直接に、あるいは朝鮮半島を経て日本に流れ込みました。しかし、それだけなのでしょうか。日本から向こうに渡っていったものはないのでしょうか。  日本のこの時代に対する歴史観には、日本は文化が遅れていて、中国や朝鮮に学び、向こうの文化を取り入れて発展してきたという観念が抜きがたくあります。特に戦後、この見方が浸透しました。  その代表例は遣隋使、遣唐使です。  推古天皇15(607)年に小野妹子が遣隋使として派遣されました。遣唐使の最初の派遣は舒明天皇2(630)年です。以後、途中で船が難破したりしているので数え方にもよるのですが、遣唐使派遣は20回だ、いや16回だなどといわれています。いずれにしろ、日本からたびたび唐に出かけて向こうの進んだ文化を学び、それによって日本は発展したという文脈で語られています。  しかし、事実はまったく違うのです。たとえば小野妹子の遣隋使のときです。こちらから行っただけでなく、隋からも裴世清をはじめ位の高い役人などが32艘もの船を連ねてやってきています。いわば「遣日使」です。唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきています。その人数がまたすごいのです。たとえば、天智天皇8(669)年には2000人が来ています。天智天皇10(671)年にも2000人来日、という具合です。ほかにも、当時新羅は日本に高い関心を抱いていたようで、30数回も来ています。いまの中国の満州から朝鮮北部、そしてロシアの沿海州まで版図を広げた渤海という国がありましたが、ここからも33回来ているのです。遣隋使、遣唐使よりも遣日使のほうがはるかに多かったのです。 (出典/田中英道著『日本の歴史 本当は何がすごいのか』育鵬社) 【田中英道(たなか・ひでみち)】 東北大学名誉教授。日本国史学会代表。 著書に『日本の歴史 本当は何がすごいのか』『[増補]日本の文化 本当は何がすごいのか』『[増補]世界史の中の日本 本当は何がすごいのか』『日本史5つの法則』『日本の戦争 何が真実なのか』(いずれも育鵬社)ほか多数。
日本の歴史 本当は何がすごいのか

知っていますか? 日本の“いいところ" 伝統と文化の魅力がわかる14話

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