朝鮮半島の有事を救う【岡崎久彦大使の安全保障論】(2)――かつて日米同盟という言葉はタブーであった
外務省内部での評判は高くなかった
岡崎久彦氏(1930~2014年)は、外務省で初代情報調査局長を務め、その後、駐サウジアラビア、駐タイ大使を歴任した。平成4(1992)年、62歳で外務省を退官した後も国際情勢判断の仕事を続け、その分析レポートは政界、官界や財界からも高く評価されていた。 頭脳は極めて明晰であり、事実認識に思い込みやイデオロギーを持ち込まないという思考を有し、さらに事実から導き出された情勢判断を曲げなかったので外務省きっての論客と謳われていたが、内部での評判は必ずしも芳しいものではなかった。 一般的に官僚は、省内の雰囲気や大臣の意向を忖度(そんたく)して、その場をおさめることに長けているが、岡崎大使にはまったく当てはまらなかった。 岡崎大使本人も、死亡後に出版された回顧録『国際情勢判断・半世紀』(育鵬社、2015年)で、次のように述べている。 昭和53(1978)年夏、国際関係担当参事官として防衛庁に出向しました。……防衛庁でやっているうちに、自民党のタカ派が私の支持者になっていきました。当時の園田直外相からは「おまえ評判いいな。だけど全部、外務省外だけどな」などと言われたこともありました。(前掲書、80ページ、83ページ)日米同盟という言葉がタブーでなくなった
当時の外務省は、いや外務省ばかりではなくマスコミや教育界も同様であり、いまなお一部には色濃く残っているのだが、「戦後の平和主義」の影響で、国際関係論を論じる上で相手国を「脅威」とか「仮想敵」と規定し、これに対して日米「同盟」が必要であるなどと言ってはいけないという考え方であった。 一計を案じた岡崎大使は、ソ連を「潜在的脅威」として国会答弁を行ったが、それでも大騒ぎになった。また当時の社会党議員などは、仮想敵などという言葉を聞きたくないと言い張った。 しかし、その当時、ベトナムのカンボジア侵攻やイラン革命、さらにソ連のアフガン侵攻(1979年)と、それに伴う他国に先駆けての日本の1980年のモスクワオリンピックのボイコット決定など、世界を震撼させる出来事が次々に起こり、ようやく国会議員も国際情勢の現実(リアリズム)を目の当たりにした。 その結果、「ソ連の脅威とか、日米同盟といった言葉を公然と使っても、とがめられなくなりました」(前掲書、83ページ)と記している。 確かにその後、日米同盟という言葉を用いることがタブーでなくなり、新聞でも一般的に使われるようになり、当時を知る者としては隔世の感がある。(続く) (文責=育鵬社編集部M)
『国際情勢判断・半世紀』 外交戦略論の論客にして安倍外交の指南役だった著者が、後世の日本人に遺す唯一の回顧録! |
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