朝鮮半島有事、李英和氏の優れた情勢判断(2)――北朝鮮留学で見たものは「絶望」
在日朝鮮人三世として生まれ
李英和氏は、在日朝鮮人三世として大阪府堺市に生まれた。李氏は著書『朝鮮総連と収容所共和国』(小学館文庫、1999年、元本のタイトルは『北朝鮮収容所半島』1995年)で次のように書いている。 「(私の)父は四歳のとき、現在の韓国(慶尚北道)から、日本に渡って来た。母は日本生まれの二世だった。……父はパチンコ屋の店員、母は夕方から夜遅くまでホルモン焼きの屋台を出していた」(同書14~15ページ) 生活は貧しかったようであるが、大阪府立堺工業高校卒業後、溶接工を勤めながら関西大学夜間部に入学、関西大学大学院博士課程修了という学歴を持つ。 彼は高校生の時に、朝鮮人の友人を求め朝鮮総連(在日本朝鮮人総聯合会の略称)傘下の朝青(在日本朝鮮青年同盟)に加入した。 しかし、「(金日成という)独裁者にいいように振り回され、それでも忠誠をささげ続ける。そんな朝鮮総連の姿は、高校生の私の眼にも異様に映った」(同書24ページ)と記している。 李氏は関西大学の夜間部に進学し、朝鮮総連系の大学組織である留学同(在日本朝鮮留学生同盟)のサークルに入り、反差別運動や韓国の民主化運動に精を出したが、「金日成主義を信奉する先輩たちとは、どうしてもソリが合わなかった」(前掲書27ページ)と述べている。 その後、就職浪人したこともあり大学院に進学し、朝鮮総連傘下の社協(在日本朝鮮人社会科学者協会)に加盟した。朝鮮総連の体質には何かしら冷めた目を持っていたが、仲間との交流を求めていたのだろう。北朝鮮留学、祖国には絶望しかなかった
人生の最大の転機となったのは、関西大学(経済学部)の助手となり在外研究の機会を得て、1991(平成3)年4月から12月までの8か月間、北朝鮮のシンクタンクである朝鮮社会科学院への留学であった。 そこで垣間見たものは何だったのか。食糧事情がひどいことは知っていた。それ以上に、 「普通の民衆も現状にすっかり失望し、そして将来を絶望していた」 「(北朝鮮)労働党の恐怖政治は、民衆に一言の不満の表明も許さない」(前掲書35ページ)「食糧危機に喘ぎ、圧政に苦しみ、収容所に囚われる」(同49ページ) という北朝鮮の現状であった。 こうして1993年より李英和氏は、NGO団体「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク」(略称=RENK)を結成し、金日成父子、さらに労働党政権への批判を明確に打ち出し、北朝鮮の民主化を公然と掲げ活動し始めた。(続く) (文責=育鵬社編集部M)ハッシュタグ
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