渡部昇一氏を偲んで(第2回)

神武天皇像(縮小)

奈良県大台ケ原の神武天皇銅像

初対面の思い出

 渡部昇一氏と初めてお会いしたのは、平成12(2000)年の秋、ホテルニューオータニ(東京紀尾井町)のダイニングバー「SATSUKI」である。  尊敬する渡部氏に会えるという期待と喜びは、面談の約束の時間が迫るにつれ、緊張に変わっていった。その緊張が最高潮に達したときに氏が現れた。 「初めまして」の挨拶の後、着席。「飲み物は何になさいますか」と尋ねると「チョコレートパフェをお願いします」との返事だった。  当時すでに保守論壇の重鎮的位置におられた氏の“想定外”の注文に驚いた(その後、甘い物好きだと知った)。面談の間も、終始穏やかな表情で話された。 「保守論壇の重鎮、意外にもチョコレートパフェをご注文!」これが初対面の思い出である。

谷沢永一氏が平成20年の出版物№1に選んだ書『日本史百人一首』

 さて、今回も早速、氏の著作について述べてみたい。  氏の著作の多くは口述筆記によって行われた。テーマを設定し、それに対し、話してもらった内容を原稿にまとめる。それに目を通してもらい、不足分などを加筆していただくというスタイルである。  それによって、育鵬社から最初に刊行していただいたのが『日本史百人一首』(平成20年/2008年)だ。神武天皇から三島由紀夫まで、総勢96人100首の歌で、日本史をたどった本である。この本は、氏の盟友だった谷沢永一氏が、この年の出版物No.1に挙げてくださった。  百首をどう選ぶか――。百首の歌で、全体として、日本史像を表さないといけない。そうした観点から候補作を挙げ、氏が最終的に選んだ歌に解説をしていただいた。  第一首を神武(じんむ)天皇の歌にし、続く第二首を須佐之男命(すさのおのみこと)の歌にするという点で、氏に迷いはなかった。口述取材の際も、特に出だしの二首の解説をしているときの表情が上機嫌であったことを覚えている。その理由は何であったのか――。  二首の解説の中で、こう述べている。 「神武天皇が実在の人物だと考える学者は少ないと思うが、私は実在を信じている。それは『日本書紀』に神武天皇(神倭伊波礼毘古命=かむやまといわれびこのみこと)を作者とする膨大なる長歌や短歌が入っていることが証拠になると思う。これだけの古代歌謡をつくった国王が架空の人物であったとするような国は、世界中どこを探してもないと思うのである。実際に歌が残っているのだから、実在の人物だったことを考えてもいいのではないか」(『日本史百人一首』育鵬社)  それに関連し、『歴史通は人間通』(育鵬社)の中では、次のように述べている。 「日本においては神話と歴史が切れていない。このことを戦前の日本人はひじょうに誇りに思っていた。戦後、歴史と神話が切れていないことに対して嫌悪の情を示す歴史家が少なくないが、神話と歴史時代が続いているということは、その民族が他民族によって圧倒的な征服を受けなかった証拠であり、まずは慶賀すべきことである、という立場をとるのが当然である。しかし、そうかといって、われわれは神話の時代に住んでいるのではないのだから、歴史時代をあたかも神話時代のように扱うのは、これまた間違っている」 「歴史は、まずもってその国の物語である。どの国にもそれぞれの物語があるが、比較的おもしろい物語になる国と、あんまりおもしろい物語にならない国がある。日本は、と言えば、ずば抜けておもしろい物語になる国であるように思われた。第一、有史以前から、つまり神代から現代まで、筋が一本ピンと通った国、つまり王朝が一つという国はほかにないではないか。これは物語るに値するのではないか」  口述取材の際、氏が上機嫌であったのは、自身の著作『日本史百人一首』によって、今まさに「おもしろい物語」を紡ぎ始めたのだという手ごたえを感じられていたからではなかったか――。  氏のご長女・真子(まこ)さんは、国際機関に勤めるご主人とともに海外で生活されている。その真子さんが、海外駐在の日本人家族の子供たちに、『日本史百人一首』をテキストとして、日本の歴史と文化を教えておられるという話を渡部氏から聞いたことがある。「親子の縁をさらに深めてくれた『日本史百人一首』には感謝しています」との言葉とともに。 (育鵬社編集長・大越昌宏)
日本史百人一首

歴代天皇から名も無き庶民までが三十一文字に託した真実とは?

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