渡部昇一氏を偲んで(第5回)

書斎で本を読む渡部先生(第5回)

書斎で本を読む渡部昇一氏

生涯現役


 100歳まで現役。

 渡部氏はそのイメージを持っておられたと思う。

 本稿(第3回)に記したように、91歳の白川静氏との対談においても、白川氏が1日をどのような日課で過ごし、何を食べ、どんな健康法を実践しているのか、ということを尋ねていた。年長者との対談においては、ルーティーンといえるほど、健康法についての質問をなさっていたように思う。それだけ、長く現役であることを望んでおられたと思う。

 白川静氏は96歳で亡くなられた。自伝的著書に『回思九十年』(平凡社)があるが、同じく90歳を越えて活躍した著述家に徳富蘇峰がいる。蘇峰には『読書九十年』(大日本雄弁会講談社)がある。

読書によって鍛えられた精神


 渡部氏の著作に『国語のイデオロギー』(中央公論社)がある。その中に、「歴史家としての蘇峰」という小論が収められている。

 徳富蘇峰は文久3(1863)年生まれ。昭和32(1957)年に94歳で没している。明治から昭和にかけてのジャーナリスト、歴史家、評論家で、『国民新聞』を主宰、『近世日本国民史』(全100巻)を著した。

 この大著『近世日本国民史』の執筆は、大正6年(1917年)、蘇峰56歳の時に始められた。蘇峰は明治天皇の崩御をきっかけに、「明治天皇御宇史」、つまり明治という時代を書きたいと思ったのである。しかし、明治を知るためには幕末を、そのためには徳川時代を、さらにそのためには家康を、秀吉を、と時代をさかのぼる必要があると感じ、建武の中興あたりから書き始めなければならないと考えた。

 しかし56歳の蘇峰は、そこまでさかのぼっていたら、自分が生きている間に、明治までたどり着けないと考えて、織田信長から書き始めたのである。

 結論からいえば、大正6年、蘇峰56歳で書き始められた『近世日本国民史』は、昭和27年(1952年)、35年の歳月を経て、蘇峰90歳のときに100冊目が完成、それが最終巻となった。明治時代を書こうとした蘇峰だったが、最終巻はようやく明治維新の初めに達したところだった。

 蘇峰はその35年のあいだに、父母を失い、自身大患を患い、次男が死に、長男を失い、関東大震災で国民新聞社を失い、その再建を果たした後には自ら国民新聞社を去ることを余儀なくされた。その後も、60年間苦楽をともにした妻を失い、子女を失い、親戚を失い、天涯孤独の老爺となった。

 さらに戦後は戦犯容疑者として、80歳を越える身で巣鴨に収容された。公職追放が解除されたのは昭和27年のことである。

 渡部氏はこの間の蘇峰について、「彼は病人であり老人であり、失業者であった。しかもこの間、出版の見込みも定かならざるに営々として、自ら信ずる明治天皇御宇史を書き進めていったのである。王陽明は『丈夫は剛腸を貴ぶ』と言ったが、蘇峰こそは正に剛腸の丈夫(物事に動じない男=筆者注)であった」(『国語のイデオロギー』)と記している。

 蘇峰がその不遇に直面しても、ゆるがずに自身の信じる史論を展開するもととなったのは「他ならぬ読書である」(『国語のイデオロギー』)と渡部氏は述べている。

「戦後」という言語空間の中で、渡部氏が自身の主張を正々堂々と述べ続けてくるには、人知れぬ苦労があったことは容易に想像できる。上智大学の教室には、圧力団体が押し寄せて授業を妨害しようとしたこともあった。しかし氏は、一歩も退かなかった。

 そうした渡部氏を支えたのも、「他ならぬ読書であった」と思う。氏には、西郷隆盛について記した『「南洲翁遺訓」を読む』(致知出版社)という著作もある。数々の試練を乗り越えてきた先人たちに生き方を学んでおられたのであろう。

 なお、徳富蘇峰の『近世日本国民史』については、渡部昇一著『名著で読む日本史』(扶桑社文庫)でも詳しく述べておられるので、一読いただければ幸いである。

(育鵬社編集長・大越昌宏)

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