わが故郷、熊本での大地震[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第11話)]

熊本日日新聞に載った福島民報社の思い

熊本日日新聞に載った福島民報社の思い

驚天動地・郷里が揺れる

 4月14日(2016年)、入院して1週間になる。これまでは循環器科の病棟にいたが、この日から心臓外科病棟に移り、バイパス手術を覚悟せざるを得ない状況になる。  毎日なんらかの検査があるが、今日は心エコーの検査だった。胸にゼリーを塗り、心臓に向けて超音波を発射する器具をあてがい、少しづつ動かして返ってくるエコー(反射波)をモニターで見ながら、心臓の形や働きを視る。  30分くらいで終わったが、これまでわかった以上の病変は見つからなかった。夕食後、食事の感想文を書いたり、血圧測定などを終えて、早々に寝付いた。  翌15日、寝起きにテレビを点けて、びっくりした。熊本で前夜9時半ごろ大地震が起き、死者9人など大きな被害が出ているという。しかも被害甚大と報じられている益城町はボクの郷里八代郡氷川町からそれほど遠くない。  チャンネルをいろいろ切り替えて確かめたのだが、氷川町についての報道は殆どなかった。被害の広がらないことを祈ったが、しばらくして熊本城の石垣が崩れたというニュースに接した。余震も続いているようだ。  16日(土曜)の朝一番、テレビを点けてまた驚いた。二日連続の朝一びっくりテレビである。この日の未明1時25分ごろ、二日前の地震をしのぐ地震が起き、これが本震だという。  14日のそれは前震だったとされ、死者の数も増えていったし、建物損壊の続報もどんどん伝えられる。この時以来、テレビにくぎ付けとなった。  ボクは1年前に『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』という本を上梓した。  光永も内田も氷川町の出身で、通信と広告事業を展開していた電通(旧日本電報通信社)が、広告専業に至る過程で、内田が国として関与し、郷里の二人の間に知られざるヤリトリがあったことを紹介した。

思い出の宇土櫓

 そのうちテレビは熊本城の損壊ぶりを詳しく伝えだした。堅牢を誇った石垣が崩れ、宇土櫓(うとやぐら)の一部にも被害が出たという。宇土櫓というのは熊本城の一角で、国の重要文化財に指定されている。  ボクには宇土櫓について忘れられない思い出がある。ボクら家族が第二次大戦後、満州大連から引き揚げてきて、親父の郷里氷川に落ち着いたとき、親父が子どもたちを熊本城に連れてきてくれたことがある。  そのとき、次弟が宇土櫓の廊下の珊から足を投げ出して座り、下をのぞき込んで喜んでいた。ボクが下を覗くと石垣が遠く地面まで達しており、高所恐怖症でなくとも足がすくみ、恐ろしいことこのうえない。  親父は弟を驚かさないようにゆっくり近づき、引きずり揚げた記憶がある。その宇土櫓が被災している。氷川町の知り合いに電話をしたものの、つながらなかった。混乱を想像して気が重くなった。

父母の奇縁

 しかし、心が癒されることもあった。フジサンケイクラシック(静岡県伊東の川名ホテルゴルフコースで開催)で、熊本ゆかりの選手たちが活躍したことである。  4月22日の初日から、笠りつ子(熊本県菊陽町・熊本市内の実家が被災)、上田桃子(熊本市)、野口彩未(熊本市)、大山志保(宮崎出身だが熊本中央高卒)が上位陣を占めた。  結局大山が優勝し、笠が2位。大山の優勝談話が心に刺さった。「今週は試合ではなく、熊本で何か手伝いたかった」。  退院後熊本地震のことをきちんと調べたくて、熊本日日新聞特別縮刷版「熊本地震一か月の記録」を取り寄せた。その中に印象深い写真があった。 「熊本きずな福島」とのボードが見えるその写真はともに大震災を経験した二つの県が手をたずさえようと訴えている。コメントには、東日本大震災後、福島県浪江町の人々の避難先には熊本の人々から支援物資がぞくぞく届けられたとあった。  肥後もっこすもなかなかやるなと思ったが、ボクの父は熊本出身であり、母は福島県浪江町の出身である。父母がこの写真を見たらなんと言っただろうか。聞いてみたいが今は二人とも黄泉の世界にいる。 災害時に必要なのは、「遠くの親戚も近くの他人も」である。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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