反面教師としての亡妻[楽しくなければ闘病じゃない:心臓バイパス手術を克服したテレビマンの回想記(第14話)]

「若いころの亡妻、ボクがもう少ししっかりしていれば……」

「若いころの亡妻、ボクがもう少ししっかりしていれば……」

手術を前に亡妻を想う

 ボクは心臓バイパス手術を受けることが決まって、亡妻を思うことが多くなった。その思いの向かうところは、なぜ妻は若死にしなければならなかったのかという悔悟の念であり、なぜ病院という存在を生かせなかったのかという慙愧の気持ちである。  ボクが妻を亡くしたのは1994年8月、享年49。死因は脳腫瘍だった。  妻は同じテレビ局で働く社員だったが、ともに熊本を郷里に持つ関係が分かったところで意気投合し、2回目のデートで婚約した。  あまりに早い展開ぶりに、友人たちは「熊本県人同士の気持ちは理解できない」と言ったが、確かにキチンと会ってから3週間しか経っていなかった。本人たちにしてみれば、性格や生き方、趣味や嗜好性にも食い違いがなく、誕生日や学生生活の場にも共通点があった。 「他愛もないこと」と言うなかれ。縁とはそういうものである。家同士ももろ手を挙げて賛同してくれたので、吉事は早いに越したことはない。  ボクには過ぎたる女性だった。子供には恵まれなかったが、それでも楽しい日々だった。もちろんけんかをしたこともあったし、嫁と姑の相性の問題もなかったわけではないが、あとを引くことはなかった。  少なくともボクにはそう見えたが、妻には悩みもあったらしい。一時それが原因らしく、妻がふさぎ込んだ時期があり、鬱症状を示したが、友人たちの協力もあって、それを乗り越え、再び楽しい生活を取り戻すことができた。

徹底した病院嫌い

   結婚生活が20年ほど経った頃、妻は40歳代半ばにあったが、ボクは妻の乳に小さなしこりを発見した。妻もその存在に気が付いていたようだった。  早速ボクは、健康診断を受けるか、病院で診てもらってほしいと言ったが、取り合ってくれない。夫婦で受けられる人間ドックなどを探しても乗ってこない。  ある時など「海外旅行に行かせてくれたら病院に行く」と言うので、「本当だね」と念を押し、パリにいる共通の友人を訪ねる旅を実現してやった。  しかし、帰ってくると、やはり病院には行かないという。徹頭徹尾病院嫌いだった。本人は乳腺炎だと言い張っていたが、乳癌と宣告されることが怖かったのかもしれない。  当時は、ガンはまだ不治の病の印象が強く、病院行きを強く勧めると、必ず夫婦喧嘩になった。そのころのことを回想すると、自分の医学知識のなさと、断固たる行動力の欠如が大きな災いだったことが浮き彫りになって情けなく思うばかりである。  そのうち、妻の行動に小さな変化が出てきた。  流しで洗い物をしていて、茶碗を落とすようなことがあった。「どうしたの」と聞くと、「手が滑った」と言った。あとで知人に聞いた話だが、ふと飲み物を口からこぼすこともあった。脳神経の不全によるものだったらしい。

ボクの大失敗

 91年の暮れ、トイレから立つことができなくなった。足がつってしまったようになり、友人に来てもらって抱きかかえて寝かせた。  その後は無理して歩いたが、正常な歩き方ではなかった。年末年始ということもあって、目白にある妻の実家でしばらく様子を見ることにしたが、そこで寝込んでしまった。  妻には親しくしていた友人の一人に医家の奥さんがいた。妻が望んだパリ旅行の同行者である。この人のいうことは良く聞いた。この医家夫人は妻の症状を見て「更年期障害」といった。妻もそれを信じた。いや信じようとした。ボクも信じようとした。  今から考えると、医家夫人といえども素人だ。なぜ、きちんとした医師の門を叩かなかったのか。いまどんなに悔やんでも妻は戻らない。 「後悔先に立たず」の類語に「死んでからの医者話」という表現がある。まるでボクのための言葉だ。 協力:東京慈恵会医科大学附属病院 【境政郎(さかい・まさお)】 1940年中国大連生まれ。1964年フジテレビジョン入社。1972~80年、商品レポーターとして番組出演。2001年常務取締役、05年エフシージー総合研究所社長、12年同会長、16年同相談役。著者に『テレビショッピング事始め』(扶桑社)、『水野成夫の時代 社会運動の闘士がフジサンケイグループを創るまで』(日本工業新聞社)、『「肥後もっこす」かく戦えり 電通創業者光永星郎と激動期の外相内田康哉の時代』(日本工業新聞社)。
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